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第44話 二人、波の音と共に眠る

 手が震えた。  電話に出ると「秋君」と囁く様な河瀬さんの声が聞こえた。 「河瀬っ、今何処? 今まで何してたの? 会いたい!」  俺は勢いよく、早口で言う。 「僕も会いたい。でもダメだ。秋君からメールを貰って。最後に秋君の声が聞きたくて電話したんです」 「最後って何?」 「最後は最後だよ」 「今、何処にいるんだよ!」  俺は声を張り上げた。  河瀬さんは黙ってしまう。  俺は耳を澄ました。  音が聞こえる。  故郷で嫌と言うほど聞いた音。  河瀬さんを探している間に、耳に張り付いてしまった、その音。 「河瀬、今、海にいるだろ」  俺がそう言うと河瀬さんは息を漏らした。 「何で?」と河瀬さんが訊ねた。  驚いた、と言う風だった。 「波の音が聞こえる」と俺。  俺の台詞の後には沈黙が続く。  俺はしっかりとスピーカーに耳を付けてどんな音も聞き漏らすまいとした。  波の音だけ、鮮やかに耳に響く。  凄く不安だ。 「さよなら」と突然、河瀬さんが言う。 「え?」  俺の短い台詞の後にはもう電話は切れていた。  俺は急いで河瀬さんに電話をかける。  何回かのコール音。  息を呑んで河瀬さんが出るのを待つ。  留守番電話の案内が始まる。  河瀬さんは電話に出なかった。  苛立ちの勢いで思いきりスマートフォンを床に叩きつけた。  河瀬さんは今、海にいる。  でも、何処に?  何処の海にいる?  俺は直ぐに自分の部屋を出て河瀬さんの部屋に向かった。  玄関扉の鍵が中々開かずにイライラした。  やっと扉が開くと滑り込む様に部屋に入った。  俺はリビングダイニングで探し物を始める。  河瀬さんの居場所を知る手掛かりがこの部屋の何処かにある。  そう信じて。  アルバイトは休ませてもらう事にした。  マスターに理由を話すとマスターは、「そうか」と短く言った後に「大変だったら言えよ。手伝う」と言ってくれた。  マスターの気持ちがただただ嬉しかった。  俺は時間も忘れて手掛かり探しをした。  マスターに連絡をするのを忘れるくらいに夢中になっていた。  手掛かりを探しているうちにどんどん日は傾いてゆく。  この部屋は物が多過ぎる。  まだ何も見つからない。 「くそっ!」  本の山に拳を叩きつけると見事に山は崩れた。 「痛っ」  分厚い本が俺の頭に直撃する。  床に落ちた頭にあたった本を拾い上げる。  その本には見覚えがあった。  いつか河瀬さんが見ていた海の写真集だ。  ページを捲ってみる。  吸い込まれそうな海の写真。  それと、本に栞代わりの様に挟まれた紙。  その紙を見て俺は部屋を飛び出した。  自分の部屋に戻り、カバンに財布とパスケース。  スマートフォンだけを詰めて部屋を出る。  部屋の鍵をかけたかなんて覚えていない。  俺は目的地目指して走った。  当日で新幹線のチケットが取れなかった為、電車を乗り継いで目的地に向かった。  もし、もしもその場所に河瀬さんがいなかったら。  不安で圧し潰されそうだった。  どうか河瀬さんに会わせて下さい。  神様。  祈りの時間は長く続いた。  過ぎる車窓の景色には目もくれず祈り続けた。  電車が目的の場所に着いた。  時は既に夜。  辺りは真っ暗だった。  今が何時なのかは確認していない。  暗闇の中。  全力で走る。  此処で一番の人気スポット。  クラゲの泳ぐ海。  そこを目指して俺は息を切らせて走り続けた。  海に着く。  辺りは暗い。  月と星の明かりだけが頼り。  とても静かだ。  波の音と風の音。  それしか聞こえない。  暗闇に目をこらして辺りを睨む。 「あ」  声が出た。  砂浜に座り込んでいる人影が見える。  俺はふらふらとそれに近付く。  近づく度に分る。  河瀬さんだ。  眼帯と眼鏡を外している。  背中を丸めて。  膝を抱えて海を見つめている。 「河瀬っ」  声をかけると河瀬さんは驚いた顔を見せた。  河瀬さんはボロボロで、そして乾いていた。  それでも河瀬さんだと分る。 「何で、此処にいるって分かったんですか」  枯れた声でそんな事を訊かれる。  俺はパンツのポケットから丁寧に折られた紙を取り出して河瀬さんに突きつける。  それは引っ越しの時に河瀬さんに渡した海月煎餅の包装紙だった。  河瀬さんが見ていた海の写真集。  そこにこの包装紙は大事に折られて挟まれていた。  包装紙には海月煎餅の生産地である、俺の故郷の名前が書かれている。  自分の故郷に河瀬さんがいるのでは?  それは賭けだった。 「ああ……。秋君の過ごしていた町の海を一度は見たいなって。良い海ですね」  河瀬さんは海を見つめた。  暗い。  暗い海を。 「何で、何で風邪なんて嘘ついて俺から距離を取ったんだよ! 何でいなくなったりしたんだよ! 何で連絡してくれなかったんだよ! 最後って何だよ!」  色んな言葉が溢れた。  河瀬さんの表情が曇る。  そんな顔を見るだけで心が痛かった。  河瀬さんはゆっくりと話し出した。 「秋君が欲しくて。秋君の血が欲しくて、どうしようもないんです。僕はずっと消えたかった。生きてる意味が分からなくて。でも、秋君といると血を吸いたい……生きたいと思ってしまうんです。秋君と距離を取れば大丈夫と思ったけど、あの日、秋君がうちに来て、我慢できなくなって。あんな事を……。ぐったりしている秋君を見て、目が覚めた。僕はやっぱり化け物なんです。この世に生きていてはいけないものなんです。このまま僕と一緒にいたら秋君を傷付ける。だから秋君の前からいなくなろうと思いました。それで、消えようと……ずっと飲まず食わずで過ごしました。毎日、ただただ、秋君の故郷の海を眺めながら。それも今日で終わりにします」  河瀬さんは砂浜に視線を落とした。  俺の目がその視線を追う。  河瀬さんの視線の先には園芸用の、のこぎりがあった。 「流石に首を掻っ切れば吸血鬼も死にます。それで砂になって、この海の砂と混ざろうと思います。秋君、どうかこのまま死なせて下さい。毎日秋君の事を考えて、秋君が欲しくて。でも、それはとてもあさましい事だから。こんなどうしようもない自分を消したいんです」  そう聞いた後。  それは自分でも驚いた行動だった。  俺は河瀬さんを抱きしめていた。  強く。  強く。 「ダメです。そんな事されたら秋君をめちゃくちゃにしちゃいます」  そう言って河瀬さんは俺を押し返した。  でも、俺は離れない。 「それでも良いから。側にいて下さい。俺は河瀬が好きだから……河瀬は、大事な……大事なっ……」  河瀬さんが俺を見つめている。 「大事な友達だから」   友達……本当は違う事を言いたかったのに言えなかった。  でも。  でも、ここで言葉を終わらせない。 「河瀬、一緒に生きて。生きる意味が無いなら河瀬の人生を俺に下さい。俺が死ぬまで一緒に生きて下さい。俺の隣にいてよ!」  そう言って河瀬さんに、全身の力を込めてギュッとしがみ付く。 「秋君、ダメです。離れて」 「離れない! 今すぐ俺の血を吸って下さい!」 「でも……」  俺は河瀬さんの口を塞いだ。  一瞬のキス。  河瀬さんは目を大きく開いて俺を見ていた。 「そんな事されたら我慢出来なくなります」  河瀬さんが俺をまた離そうとする。  でも、俺は離れない。  絶対に。 「我慢なんていらない!」  河瀬さんの目を真っすぐに見た。  月の光を反射して金色に光る綺麗な目を。 「秋……君」 「…………」  もう、ただ、黙っている事しか出来ない。  黙って、河瀬さんから視線を逸らさないでいた。  波の音が馴染んだ頃。  河瀬さんの唇が俺の首筋に触れる。  月と星と波の音。  河瀬さんの温かい唇の感触。  尖った牙の感触。  深く。  深く俺の中に入って来る。  痛みが全身を駆け抜けた。  痛い。  苦しいほどに痛いけど、もう、それが俺の、この世界の全てになっていた。

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