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第6話 不惑

〈一〉 毎週火曜は午後の授業が同じなので、昼休みは大体ジュンと過ごしている。 その日は陽射しが暖かく、図書館裏のベンチで昼食をとることになった。いつかショウさんに教わってから、すっかりお決まりの場所になっている。 こんなに気持ちの良い昼下がりにも関わらず、ユウのまわりだけをどんよりとした空気が漂っている。 「ユウ、大丈夫? なんかげっそりしてる。この間何かあった?」 昔から一緒にいるジュンでさえ、ユウの心の機微を感じ取るのは容易くないのだが、こうも分かりやすく落ち込まれると、一体何があったのだろうと逆に聞くのを躊躇われる程だった。 しかし、おおよその察しはついていて、ジュンが『この間』と言ったのは、週末のライブの時だと心のどこかで確信めいていたからだ。 ユウは何度か小さく口を開けては閉じを繰り返し、いかにも寝不足の目でジュンを縋るようにしばらく見つめていたが、とうとう自分一人では解決出来ないと観念し、このところずっと堂々巡りしているあの事をジュンに打ち明けることにした。 「……あのさ、ジュンは、誰かを特別好きになったことある?」 些か唐突すぎたかと思った。 薄目でジュンの顔を窺い見ると、ジュンは笑っているとも真顔とも言えない顔をしている。 「うん、あるよ」 これまで二人でこういった類の話になったことがないのに、ジュンは恥じらったりからかうことなく端的にそう答えた。 「……ショウさんのこと?」 「えっ!?」 その上、何から切り出したらいいか、次の言葉に迷っていると、あんまり自然にその名前が出てきたので驚いたけれど、ユウは心のまま話すことにした。 「……うん。でも、何で分かったの?」 「うーん。何となく、かな」 「その、気持ち悪くない? 男同士なのに、とかさ」 「ううん、思わないよ」 ぽつりぽつりと互いに短い問答をしている間、ジュンは向かいの生垣に咲いている白いサザンカの花を見ているようだった。 口元は少し微笑んでいる。 「だって、ユウ、最初からショウさんには心開いてたっていうか……。ショウさんといる時はいつもすごく楽しそうにしてて。キラキラって感じだよ。それに、最近はよく二人でいるみたいだし」 (キラキラ? 俺ってそんななのか?) 「……そ、そっか。でも、これって、その、恋愛感情なのかな」 やはり少し戸惑いつつも、思い切って言葉にした。 ジュンは少し間をおいて、また慎重に言葉を選びながら話してくれた。 「例えば、その人の一番近くにいたい、とか、自分以外の誰かを特別にしないで欲しいとか。そういう気持ちって、友達に対してもあるかもしれないけど……、その強さなのかな? ただ見てるだけじゃ足りなくて、もっと近くで触れ合いたくて、自分の気持ちに応えて欲しいって思ったりとか……。ごめん、私も上手く説明できないけど」 ジュンの言葉ひとつひとつに、ショウさんへの気持ちを当てはめていく。 心臓が少し早まった。 「けど……そうだな。ユウが、ショウさんの事を話す時とか、二人が一緒にいる時の雰囲気とか見てると……、恋愛的な感情で、ショウさんのこと好きなのかなって、最近は思ってた」 ユウはジュンの事を誰よりも信頼していたし、何より、思春期から大人に向かう過程を共に過ごしてきたユウの一番の理解者だと思っている。 そんなジュンに「恋」と言われると、素直にその言葉を受け入れたい気持ちになる。 「そっか……うん、そっか。ありがとう。なんか、少し見えてきた気がする」 「ならよかった! また話聞かせて」 ジュンの声に混じっていたわずかな緊張が解けて、いつもの笑顔になった。 「うん。いきなりごめん、でも助かった。ありがとう、ジュン」 少し迷いが晴れたユウは、勢いをつけてベンチから立ち上がり、雲のない澄んだ空を見上げている。 「私は、ユウのことが好きだよ……」 ぽそりと呟いたジュンの声は、冷たい冬の風に流されて、ユウの元へは届かなかった。 「ん? 何か言った?」 「ううん、上手くいくといいな、と思って」 「う……、なんか恥ずかしくなってきた。でもありがとう」 眩い笑顔で振り返ったユウの姿が、ジュンにはじんわり滲んで見えた。 〈二〉 「好きです」 その言葉は、思っていたよりもずっと呆気なくユウの口から出て言った。 ジュンに打ち明けてから、ユウの心は少しばかり軽くなっていた。 自分の気持ちをショウに伝えるかどうかは別として、心の中の引出しに「恋」というラベルをつける事が出来たのは大きかった。 ただ、ショウに対する想いがはっきりしてからら、その感情ははみるみる加速して、あっという間に棚の中には収まりきらない程の大きさにまで膨れ上がっていて、人間関係全般に疎いユウは、その生まれたばかりの巨大な感情を完全に持て余していた。 ショウさんは、年末に向けてイベントが目白押しで、またしてもライブの準備で忙しい日々を送っているようだった。 大学でもタイミングが合わないことが多く、ひとりよがりの恋しさが募るばかりだった。 ある日の夜、ショウさんからメッセージが来ていた。 サイコホスピタルの続編配信されたの知ってた? 来週の木曜オフになったんだけど、ウチ来ない?続き観るならユウとがいいと思って 体から桃色の噴水が湧き出た。 あふれ出る感情に踊らされて、とりあえずすぐ傍にあった枕に思い切り顔を埋め、喜びに悶えた。 そして約束の日。 ユウは、その日最後の授業が始まってから終わるまで、ずっとカウントダウンしていた。 今日に限って、教授の余談が長くなり、チャイムが鳴っても話が終わる気配がない。 (なんでこんな時に。早く終われ~) こんなにも一分一秒が惜しいと思うことはなかった。 約七分のタイムロスを経て、生まれてこの方、初めて一番ノリで教室を駆け出すほどには浮かれている。 息を切らせて電車に乗り込み、二駅目に着く頃には、呼吸は元通りになったので、電車が到着した途端にまた走り出した。 最寄りのコンビニに駆け込み、選り抜きのお菓子と飲み物を抱え、レジに持っていく。 (これ、ショウさんが好きなポテチだ!) レジ横に陳列されていた新商品を追加し、またしても急ぎ足でショウの家へ向かった。 結果的に想定よりだいぶ早く到着したので、少し息を整えてからインターホンを押す。 「いらっしゃい。今日って四時限目までじゃなかったっけ?」 久々に会う生身のショウにまた鼓動が早まった。ドアの向こうからショウの匂いがして、ユウの鼻腔が無意識下にスンとする。 「はい、駅まで走りました」 「ははっ、相当気合入ってるね!」 「はい、お邪魔します」 ショウを見つめる瞳は、まるで忠犬か、恋する乙女の如く潤んでいる。 これまでは、どちらかと言うと黒猫に近い印象だったのだが、今日のユウは嬉しさや好意が思い切り全面に出ていて、それはショウの心を大いにさざめかせた。 果たしてこの変化に本人は気づいているのかいないのか、ショウは少し様子を見る事にした。 「ショウさん、これ。映画のお供にどうぞ」 ただの身長差によるものなのに、上目遣いでコンビニ袋を手渡してくる薄紅の頬に思わず触れそうになる。 相手の目をしっかり見て話すのは、ユウの良いところだと思っていたが、今日はどうにも胸の辺りがざわつく。 「手土産はいいって言ったのに。でもありがたい。あ、これグリーンペッパー味! 俺しか食べられないのに、ありがとな」 苦し紛れに頭を撫でると、ユウの形の良い後頭部と柔らかい黒髪が指に馴染んで逆効果だった。 その日もまたお馴染みの配置で、ショウはキャスター付きの作業用チェアに腰掛けていた。 (隣に座るかと思ったのに) 声には出さないものの、ユウは密かに且つ大胆に残念がった。 時たま言葉を交わしながらストーリーを追い掛け、暫くして映画が山場に差し掛かった頃。 「ジュニア、とうとう餌食になったね。もう人類全員道連れコースだな、これは」 ショウがペットボトルのお茶を持ち、自然とユウの横に座った。 壁面のスクリーンには残忍でグロテスクな映像が流れているのに、ユウの心は全く別の意味で高鳴り、むしろ小躍りしたいくらいだった。 というのも今日のユウの頭の中は、よく言えば初めての恋をした、甘酸っぱい生気に溢れる青年らしい思考でいっぱいになっていたからだ。 (あ、また抱きしめてくれるかな。どうしよう、俺から触ってもいいのかな……) 物語の中心人物が非業の死を遂げるシーンにも関わらず、ユウのリアクションがなかったので、ショウはユウを伺い見て、ギクリとした。 シーズンを越えた山場中の山場であるはずなのに、あらんことか、ユウはスクリーンとは全く別方向であるショウに目を向けていて、目と目がしっかり合ってしまったからだ。 何か言いたげにしているが、それは映画の事ではないとすぐに分かるほど、スクリーンの薄灯りの中で、頬も唇も紅く色付かせ、落ち着きなく体をモジモジさせている。 その姿を見て、ショウの理性は一旦停止した。 突然、スローモーション映像を観ているかのように無音の世界になり、節ばった長い指を持つ男の手が、ゆっくりと伸びてユウの頬に触れた。 その先を期待するようにユウの瞳が揺らめくと、カメラはそのままユウの唇にフォーカスしていき、さらにゆっくりと傾いていく。 「えぇっと……、起きてる?」 すんでのことろで理性を取り戻したショウが、苦し紛れの言葉を紡いだ。 その腕も、カメラに映った映像も、分かってはいたが勿論自分自身だった。 スッと手を引き、自分の陳腐な思考に思わず苦笑いを漏らした時、何の前置きもなくユウの声が響いた。 「好きです」 ショウは一瞬、聞き間違えたのかと思った。 しかし、その短く実直に発せられた言葉は、瞬時にショウの胸に大きな衝撃を持って突き刺さっていた。 一度引き戻したはずの右手は、いつの間にかユウの両手に掴まれている。 真っ直ぐにショウを捉えた2つの大きな瞳は、言葉よりも雄弁に、ユウの本音を物語っている。 (あぁ、そうか……) ショウの心に突き刺さった矢は、温かく軟化したショウの心の細胞に包まれながら、奥深くへと飲み込まれていった。 〈三〉 突然の告白を受けても、ショウの表情は変わらず、驚いている様子もない。 しかし、堰から溢れはじめた思いは、もはや止めることが出来ず、ユウは構わずに続けた。 「好きです、俺。ショウさんのこと」 「……うん」 はじめはただ驚いていたショウの顔が、徐々に何かを悟ったかのような笑みに変わり、今度はその先の言葉を促すように優しく相槌を打つ。 それが容認の笑みなのかそうでないのか、ユウには分からない。 「それで……」 ユウはとにかく、形になったばかりの熱くて淡い気持ちをショウに伝えたいばかりだった。 「俺、今まで恋愛の経験とかなくて……。しかも、俺もショウさんも男で、最初はこの気持ちが何なのか自分でも分かってなくて。でも、一緒にいると、特別な気持ちがどんどん大きくなっていって。それに、前にもしかしたら勇磨さんとショウさんは恋人同士なんじゃないかって思った時、すごく嫌でした。それで、もっと、その……たぶん友人とかとは違う関係で、ショウさんと一緒にいたいと、思うようになって……」 はじめの勢いがみるみる薄れていくのを感じ、一度口ごもりそうになったが、最後にもう一言添えた。 「だからその……俺、ショウさんのこと、もっと知りたいし、ショウさんのこと独り占めしたいと思ってます」 ショウの表情は一見変わらないように見えたが、実はユウが話している間、ショウは一つも瞬きせず、瞳孔はずっと目一杯縮んでいた。 ユウは少し乱れた呼吸を整えようと、服の裾を引っ張りながら居住まいを正す。 少しの間、沈黙が流れる。 「そっか。うん……」 静寂を破ったのはショウだった。 先程の悟りの表情から打って変わって、悩ましそうに髪を掻き上げ、目線はどこか虚ろに宙を舞う。 「……そうだよね、俺も……」 珍しく言葉に詰まりながら、ショウは話し始めた―― 「俺さ、割と何でも人並み以上に出来る事が多くて……自慢じゃなくね。逆にそれが楽しくなくて、特に中学までは冷めた奴だったんだよね。けど、ギターだけはずっと、飽きずに夢中になれて。高校であいつらとバンド組んでからは、それこそバンド中心でやってきたのね。で、今……タイミング的なものとか、バンドの空気感とか、色んなものに凄くいい手ごたえを感じてて。正直、周りの細かいことには意識が向いてない状態なのね」 あ、断られる。そう思った。 しかし話は思わぬ方へ向かうことになる。 「でも、何て言うかなぁー。特に作曲中にあるんだけどさ。曲作りに没頭し始めると、急に世界から離れたくなっちゃう時があるっていうか、ある意味世界中で一人っきりになったような気持ちになる時があるというか。……難しいな。とにかく神経が張り詰めて、自分一人だとどうにも抜け出せなくなる時っていうのかな」 (『世界中で一人だけ』か。やっぱりショウさんって芸術家なんだな) ユウにとっては経験したことのない感覚だったので、ついその言葉ばかりに気が取られてしまいそうになったが、またもショウから思わぬ言葉が飛び出してくる。 「そんなんだから、ユウと一緒に映画観たり、飯食ったり、そういう時間に正直すごく助けられてると思ってる」 ショウは少し遠い目をしていたが、すぐに柔和な笑顔でユウに向き直った。 「あ、別に人間嫌いとか、自分が特別な孤高の存在とか思ってる訳じゃないからね。ただ、何気ない時間を心からリラックスして過ごせる事って、俺は特に貴重だと思っていて……」 「それになんか、タマニスゴイカワイイシ……」 「えっ?」 最後の言葉を急に濁されて、本当にそう言われたのか分からなかったが、その後の言葉はハッキリと聞き取ることができた。 「俺、そういうユウの姿は誰にも見せたくないし、触れさせたくないって思ってるから」 (「そういう」って……うわ、なんか……) 自惚れていい言葉だと思いつつ、ショウの言葉がどこに着地するのかまだ分からないので、ユウは早くその続きが聞きたくて、次第に前のめりになっていく。 「ただ、プロでやっていくって腹括る以上は、色んな制約が出てくるだろうし、そもそも死ぬ気でしがみついていくぐらいの覚悟がないと、あっという間に振り落とされる世界だと思ってて……。かといって、自分の感情をこのまま抑えられるのか分からなくてさ。最近すごく迷ってた」  ユウは、ショウが自分よりもずっと沢山の可能性や将来のことを具体的に考えていたことに少々驚きもした。 ショウがそのまま続ける。 「もうあれこれ考えてると、バンドのこととかどうでもよくなっちゃう瞬間もあってさ。今日、こうやってユウの話聞けたし。それこそユウも、おんなじ気持ちを俺に持ってくれているんだなぁっていうのを知れたし。そんな訳で、まぁ、今、俺は……タガが、外れかけている……」 ショウの語気が次第に弱弱しくなっていった。 そしてまた沈黙が訪れる。 (喜んで、いいんだよな?でも、俺の存在はショウさんの迷惑になるかもしれなくて。えっと……) 考えがまとまらず、一度内容を整理したい気持ちになり、ユウは無意識に口を開いていた。 「あの、ショウさん……」 頬が紅潮し、黒目がちな大きな瞳を潤ませたユウが、物言いたげな上目遣いでじっとショウを見つめる。 今日一体何度目だろうか…… 「っ……、はああぁぁぁぁーーー……」 突然ショウは両手で顔を覆って、長いため息を漏らした。 そして息を吐き切った次の瞬間、突然力いっぱいユウを抱きしめた。 「ショウ…さ、んっ…!!」 あまりのことに嬉しいを通り越し、驚きと苦しさでユウの目に涙が浮かぶ。 「何とかするしかないか! だって、こんなユウを目の前にして、何もないのは無理。それに、ユウが俺以外のものになるなんて、やっぱ絶対に嫌だわ」 「えっ、えっ、えぇーーー!?」 あんなに抱きしめられたいと思っていたのに、いざそうなると、果たしてこれは本当に現実なのか、ユウは信じられない気持ちになった。 目の前にいるのが本物のショウなのか、今すぐ確認したいのだが、強く抱きしめてくる腕を引き剥がすことが出来ない。 もごもごと何か言いたげに腕の中で悶えるユウに気付いたショウは、クスッと笑って少し力を緩める。 そして、乱れた黒髪をそのままに腕の中からひょっこり顔を出したユウへ、愛しさいっぱいの眼差しを注ぐ。 「気持ち、伝えてくれてありがとう」

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