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第2話 夏夜の邂逅②

「……っ!」  キィン、と甲高い音が耳を突き刺す。剣線のきらめきが見えたと思ったのも束の間のこと。幻乃と相手の剣士は、そのまま激しい斬り合いへと突入した。  視線を読み合い、意図を読み合い、踊るように刀を合わせるひと時のなんと甘美なことだろう。一秒一秒が長く感じられ、五感のすべてが鋭敏になったようだった。ずっとこうしていたいと心から願ったけれど、悲しいかな、勝負が決するのはいつも一瞬なのだ。 「……遅い」    唸るような呟きが聞こえたときには、相手の刃は幻乃の攻めをかいくぐり、容赦なく幻乃の腹を切り裂いていた。 「ぐ……っ」  斬られる衝撃に、幻乃は一歩、二歩とよろめきながら、刀を手放す。  絵の具をぶちまけたかのような真っ赤な血が、腹から流れ出していた。胸から腹にかけて、ばっさりと斬られた前面が、炎で焼かれているかのように熱い。 (遅い、か。慣れぬ長羽織など、着るものではないな)     傷口を押さえながら、幻乃は苦笑する。  なんてことはない。主人に命じられ、町人に扮して情報を探っていた最中に、幻乃は人斬りの現場に出くわした。  そして口封じに殺される。それだけだ。  人生の大半を剣に捧げた者たちの命を喰らって、これまで幻乃は生きてきた。だから、己もまた、いつかは誰かに斬られて死ぬのだろうと思っていた。刀に生きた二十五年の歳月を、誰かの糧として奪われるだけの覚悟は、できていた。   (斬られるならまあ、この人だろうなとは思ってたけど……、今日だったか)  視界が霞み、雨音がいやに大きく聞こえる。手足の感覚はもはやなく、血が吹き出すのに合わせて、体中から急激に力が抜けていくようだった。  ――俊一さま、怒るだろうな。  穏やかだけれど人使いの荒い主人の顔を思い出しつつ、幻乃は血溜まりへと崩れ落ちていく。    狭まる視界に、大きな足が映り込む。目だけで足の持ち主を見上げた瞬間、稲光が辺りを照らし出した。  血の滴る刀をだらりと下げて立つのは、二十代半ばと思わしき長身の美丈夫だった。迫力ある隻眼が印象的なその男――三条(さんじょう)直澄(なおすみ)とは、これまで何度も戦場で刀を交わした覚えがある。  数年前、直澄とはじめて刀を交わしたときには、(つば)迫り合いの間に言葉を交わすほどの余裕があった。前回斬り合ったときにはすでに、幻乃が本気で斬りかかっても仕留められないほど、実力が拮抗していた。そんな才能に溢れた成長目覚ましい男は、しばらく会わぬ間に、さらに高みへと昇っていたらしい。  幻乃が小柄な体格を生かして懐に切り込んだというのに、こちらの攻めを易々と凌いだ挙句、袈裟斬りにしてみせるこの腕といったら、まさに剣の道の最高峰だ。    ――お見事。    賞賛の言葉をかけたかったのに、口から出るものといえば血の塊だけだった。手足が冷たくなっていき、視界が急速に暗さを増していく。 「……やっと……、やっと捕まえた。『狐』」    押し殺された呟きと、滲むような哄笑を聞いたのを最後に、幻乃の意識はぷつりと途切れる。最後に幻乃の視界に映ったものは、地に落ちた白い面と、愉悦もあらわに嗤う隻眼の男の顔だけだった。

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