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第9話 主と故郷③

 一週間もすると、幻乃は彦丸から寝床を抜け出す許可をもらった。二週間経つころには、腹の傷を縫い合わせていた糸もなくなった。彦丸に驚かれる程度には、元々傷の治りが早い体質ではあるが、ああもばっさりと切られた傷がぴたりとくっついている様子を見ると、医術の進歩の目覚ましさを感じずにはいられない。   (なるほど、外国を見ろと声高に叫ぶ改革派の主張も、一理ある)  赤く盛り上がった腹の傷跡を物珍しく眺めていると、釘を刺すように彦丸が「見かけはくっついていても、まだ治りきっているわけではないぞ」と声を掛けてきた。 「分かってますよ、彦先生。もうしばらくは、真剣での斬り合いはやめておきます」 「誰も斬り合いの話はしておらんわ。こそこそ散策をしたり素振りをしたりするのも、控えるべきだと言っておるのだ」 「目こぼししてくれてるじゃないですか」 「無茶したところで痛い目を見るのは幻乃さんだからな。大の大人の子守りなんぞしておられるか。儂は知らんからの!」  幻乃の傷から抜いた糸をまとめながら、彦丸は苦々しい声で吐き捨てる。あの日以来、ろくに会話もしていない直澄よりもよほど、幻乃はこの口うるさくも優しい医師に親しみを覚えていた。  何しろ直澄はといえば、数日おきにふらりと屋敷を空けては、幻乃が薬で眠り込んでいるときを見計らうかのように、血の匂いを纏わり付かせて帰ってくるのだ。部屋の隅で座って目を閉じている直澄を見つけるたび、自分の部屋なのだから堂々と寝ればいいのに、となんとも言えない気分になる。  はあ、と深いため息をついて、彦丸は「お主に限らず、ここのところ、仕事が多くて敵わんわい」とぼやき出す。 「そんなに怪我人が多いんですか」 「まあの。侍というものはまこと分からんな。こちらが繋いだ命を、なぜわざわざ捨てにいくのやら」  彦丸の口ぶりに引っかかるものを感じて、幻乃は首を傾げる。   「直澄さんも、命を捨てに行ってるんですか。よく出かけているみたいですけど」 「仕事じゃ、仕事。藩主たる者、時代の変わり目に遊んでいる余裕などあるはずがあるか」 「仕事? 藩主自らこんな頻度で出向かなければならないなんて、どのようなお仕事なんでしょう」 「さあな。何度も言うが、直澄さまのことは本人に聞いとくれ。言っていいのかどうか分からんことは、儂は言わんことにしておるものでね」  つれなく会話を切った彦丸は、てきぱきと荷物をまとめると、仕事は終わったとばかりに立ち上がる。いつも通りの疲れた顔をしているが、彦丸の目は気遣いに満ちていた。 「ではな、幻乃。毎日の診察も今日で終いじゃ。傷が閉じたとはいえ、あまり無茶をするでないぞ。何かあれば言いなさい。お主の体は癖が強いようだから、他所(よそ)の医師に見せるのは気の毒だ」 「ひどいなあ。でも、ありがとうございます。お世話になりました」  彦丸を見送った幻乃は、さて、と伸びをすると、下ろしていた髪を後頭部の上側でひとくくりにした。結った髪が馬の尾のように揺れる束ね方は、何かと古風な主人に見られれば眉を顰められるだろうが、ひとりで動く分には関係ない。  傷口にはまだ違和感こそあるが、痛みは消えた。鈍った体を本調子に戻すには時間が必要だろうが、情報収集をするのに支障はないだろう。  直澄の袴をひとつ拝借して、幻乃は街歩きのための身だしなみを整える。長身の直澄の服を着こなすには、少々幻乃は小柄すぎたが、不格好な仕上がりには目を瞑る。外に出られればそれで良いのだ。  腰帯に刀を差し込んで、幻乃は軽やかに屋敷を出た。

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