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第10話 主と故郷④

 三条藩は、山に囲まれた盆地の一帯を治めている。対して、幻乃が仕える榊藩は、山道を降りた先の海沿いに位置していた。   (山下りはともかくとして、そこから先をどうしたものか)  下町を歩きながら、幻乃は細い目をさらに細めて頭を悩ませる。  徒歩でもいけない距離ではない。実際、直澄に斬られるきっかけとなった任務のときには、幻乃は徒歩で三条藩までやってきた。けれど、大怪我から回復した直後であることを踏まえると、積極的に選びたい手段ではない。行商人に相乗りさせてもらうか、可能なら馬の一頭でも使いたいところだ。  そんなことを考えながら歩いていると、大通りを歩く人々の中に、幻乃はここ最近知り合ったばかりの顔を運よく見つけた。  くすんだ橙の小袖に身を包んだ、十代後半の若い女性。豆腐屋の娘、お鶴である。荷車を引きながら、こちらへと向かってくる彼女に目を止めて、幻乃は口角をつり上げる。  ――ちょうどいい。  にこやかな笑みを浮かべた幻乃は、お鶴に向けて手を振った。 「お鶴さん。配達ですか?」  声を掛けると、お鶴はぱっと笑顔を浮かべて、幻乃の近くに駆け寄ってきた。 「幻乃さん! お怪我はもういいの? また勝手に出歩いて、彦先生にどやされるんじゃないの?」  荷車を止め、口を開くや否や、お鶴はまくし立てるように喋り出す。苦笑しながら幻乃は降参の意を示すように両手を掲げた。 「大丈夫です。彦先生からはもう好きにしていいとお許しをいただきましたから」 「本当に? 幻乃さんたら、平気な顔して無茶するんだもの。また青い顔して倒れちゃうんじゃないかって心配になっちゃう」 「あはは……、その節はお恥ずかしいところをお見せしました」  お鶴と知り合ったのは、幻乃が直澄の屋敷で目覚めてから数日経った後のことだ。  彦丸から絶対安静と言われてはいたものの、その日幻乃は、一向に姿を見せない直澄の同行が気に掛かって、寝室を抜け出していた。屋敷を散策していた最中、たまたま細腕の女性が大きな荷台を引いているところを見かけたものだから、「お手伝いしましょうか?」と、声を掛けた。それがお鶴だ。  五割は善意で、残り五割は打算である。  情報はいつだって商人から入ってくる。たとえそれが女子供だろうとも、藩主の屋敷に出入りできるほどの商人ならば恩を売っておいて損はないのだ。   「細っこく見えるのに力持ちだから、あのときは驚いちゃった」 「これでも鍛えていますから」 「あたしは助かりましたけどね。でも、包帯まるけの大怪我人だったんだって、後から知ったときはびっくりしましたよ。彦先生が『何をやっとるんだー!』って雷落とすから、幻乃さん、本気で焦ってましたもんね」 「彦先生が腹の傷をつついてきたからですよ」    絶対安静の言いつけを守っていなかったことを、どういうわけか彦丸は即座に嗅ぎつけて、「儂を打ち首にする気か!」と雷を落としてきたのだ。彦丸の声真似をしながら話せば、お鶴はころころと笑って、「それは幻乃さんが悪いです」と控えめにたしなめた。 「彦先生は幻乃さんのこと、心配してるんですよ。幻乃さんは、直澄さまの大切なお友達なんでしょう? 直澄さまは、幻乃さんが寝込んでいた間、毎日幻乃さんの看病をしていたって彦先生が言っていたじゃないの。そんな大事なご客人がどこかに消えたとなったら、彦先生だってそりゃあ気を揉むでしょうよ」 ――この傷を作ったのは、その『お友達』ご本人ですけどね。  心の中で突っ込みはすれど、口には出さない。幻乃自身、なぜ生かされたのかも分かっていないのだ。直澄と戦場で顔を合わせた回数は片手の指の数を越えるとはいえ、いわゆる友誼を結ぶほど、互いのことを知ってもいない。

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