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第33話 秋月と戯れ⑧
腕を押さえていた直澄の手から逃れた勢いそのままに、幻乃は直澄の肘をひっつかみ、関節をきめて折ろうとした。舌打ちをして身を反らした直澄を、幻乃はそのまま体当たりをするように突き飛ばす。
遠くへ投げられた刀を取りに行く暇はない。腿に仕込んだクナイを取り出し、体ごと幻乃は刺突を繰り出した。
喉を狙った攻撃は、しかし瞬時に反応した直澄の腕をわずかに切り裂くだけで防がれる。
「あは……! さすが、お強い」
刃には毒を仕込んであった。腕が痺れるのか、直澄は拳を握って眉根を寄せる。
殺気のこもった目で睨まれるとたまらない。先ほどまで冷や汗をかいていたことも忘れて、幻乃はぶるりと高揚に身を震わせた。
そうだ。刺客との斬り合いで幻乃が求めていたものは、この感覚だった。
武器を取り上げらなかったことをいいことに、幻乃は二撃、三撃と絶え間なく直澄に襲い掛かる。顔を歪めた直澄は、刀をほんのわずかに鞘から抜くことで、幻乃の攻撃を受け止め続けた。
狭い室内で、どったんばったんと取っ組み合うように幻乃と直澄は暴れ回る。半裸で大の大人が二人、本気か遊びかも分からないまま武器を振り回しているのだから、はたから見たらわけが分からないだろう。
顔を顰めていた直澄は、しだいに口元を凶悪な笑みの形に歪めていく。つられるように幻乃も、作り物ではない心からの笑みを浮かべてクナイを振り上げた。
力比べでは不利な体格でも、狭い場所で立ち回るには、幻乃の体は小回りがきく。ましてや痺れ毒で動きの鈍った直澄相手ならば、なおのこと。今までは斬り合いを望んでいたからあえてやらなかっただけで、手段さえ選ばなければ、ただの剣士でしかない直澄ひとりどうこうする程度、幻乃にとってはわけもないことだ。
抱きつくように直澄に襲いかかった幻乃は、背に回した手で直澄の着物を引っ張り、直澄の体勢を崩しにかかる。
「……っ、ちっ!」
「寝技はお苦手ですか?」
重心を傾けた直澄の体を、幻乃は自らの全身を使って押さえ込む。取っ組み合いが始まったときとは真逆の構図が、出来上がっていた。
馬乗りになった勢いそのままに、幻乃はクナイを勢いよく振り下ろす。だん、と鋭い音を立てて、直澄の顔の真横にクナイが突き刺さる。
「俺の勝ち、ですね」
荒い息の音が重なり響く。興奮で目が潤むのが、自分で分かった。幻乃に乗られている状況が屈辱的なのか、目を爛々と輝かせてこちらを睨む直澄の表情がたまらない。
「……殺さないのか。今なら喉をひと突きすれば、それで終わるぞ」
気づけば幻乃は、生唾を飲み下していた。
「俺、は……斬り合いがしたいんです。刀も抜けない状況で、あなたを斬っても楽しくない」
「そうか。そうだろうな」
言葉を切った直澄は、ふ、と唇を綻ばせると、全身の力をだらりと抜いた。
「……ああ。やっぱり、そういう顔をしている方が、お前らしいな」
直澄が眩しいものでもみるように目を細めて、幻乃を見上げていた。伸ばされた手が、幻乃の頬をするりと撫でていく。ぞくり、と肌が粟だった。
「俺、らしい?」
「斬り合いは楽しいだろう? 命の削り合いは心が躍るだろう? 今宵は、良い機会だと思ったのだがな。刀を交わして、血のにおいに溺れて、切り捨てた命になんて見向きもしない……自由で傲慢で冷酷な『狐』。お前には、我欲のままに生きる姿が何より似合う」
愛を囁かれているのかと錯覚するくらい、甘い声だった。直澄の手が、幻乃の唇をするりと撫でる。かと思えば、そのまま幻乃の後頭部に手が回ってきた。引き寄せられるがまま、幻乃は直澄の肩に額を押し付けるように、前のめりになる。
「――考えるな、幻乃。余計なことなど、何も気にしなくていい。お前は斬りたいだけ斬ればいいんだ」
耳に吹き込まれた囁きは、乱れていた幻乃の心に、毒のように染み込んでいった。
今や誰も肯定してくれない幻乃の生き方を、直澄だけは認めてくれる。ただひとり同じ享楽を共有できる強者が、それを許して、受け入れてくれる。
理解した瞬間、わけも分からないまま、ぶわりと頬が熱くなった。
「……それ、は……どうなんでしょう。時代、が……許さない、のでは」
「俺が許すさ」
後頭部を撫でていた手が、幻乃のうなじを優しく掴む。節くれだった指の感触を意識した瞬間、全身がぶるりと震えた。
首という急所を掴まれているという事実に、体は間違いなく恐怖しているというのに、重なった肌の感触に、燻るような熱が増していく。
その瞬間、幻乃は間違いようもなく、直澄に欲情していた。
「う、あ……、直澄、さん」
息は荒くなるばかりで、一向に整わない。体は戦場に出た後のように熱くなっていて、ひとりではどうしようもできない、おかしな熱がぐるぐると腹の奥で渦巻いていた。
は、は、と飢えた獣のように呼吸をしながら、ゆっくりと顔を上げる。ぱちりと直澄と目が合った。
暗い熱が燻る瞳。先ほどまでは焦りをもたらすものでしかなかったはずなのに、今はその欲を含んだ視線が、不思議と心地良い。
気づけば幻乃は、直澄の瞳に引き寄せられるように顔を傾けて、唇を重ねていた。嫌悪感などまるで感じなかった。直澄が驚いたように目を見開くのは分かったけれど、止められない。その反応にすら興奮を煽られて、からかわずにはいられなくなる。
「口吸いはお嫌いですか……?」
薄い唇の感触を味わうように軽く吸って、熱に浮かされたような心地で直澄の唇を舐め上げる。わずかに強張った直澄の体を、逃がさないように幻乃は強く押さえつけた。
「……なぜ」
「なぜ、とは?」
「あれほど抵抗したくせに」
「気が変わりました。口説かれればその気にもなる。そういうものでしょう、閨ごとなんて。ああそれとも……寝技はお得意でないようでしたし、こちらも苦手でしたか? 顔に似合わず、おかわいらしくていらっしゃるんですね。直澄さん」
嘲笑を向けてやれば、直澄は笑顔なのか怒りなのかも分からぬ獰猛な顔をして、短い唸り声を上げる。野生の狼のようなその声を笑う間もなく、ぐるりと強引に上下を入れ替えられた。
視線が交わる。
興奮しきった眼差しを笑ってやろうかとも思ったけれど、己とて人のことが言えるような状態ではなかった。
――この男が欲しい。
動いたのは、果たしてどちらか先だったか。
考えるより前に、噛み付くような口付けが降ってきた。
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