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第40話 藩主の仮面①
吐き出した息が白い雲を作る。空を見上げれば、重苦しい灰色の雲が一面に広がっていた。
高地らしい乾いた寒さは、海沿いの榊藩ではまず経験しない類の気候である。はじめこそひやりとした風を心地良いと感じていたものの、日に日に温度を下げていく空気は、元々三条藩の民ではない幻乃には、厳しいものがあった。
雪も降らぬうちからこの寒さとは、本格的な冬が到来したらどうなってしまうのか。店先の桶に張った薄氷をそら恐ろしい気持ちで眺めながら、幻乃は彦丸に視線を戻す。
「彦先生、そろそろ行きませんか?」
「まだじゃ。紫根 を買っておらん」
そう言いながら、彦丸は幻乃が背負う竹編みの行李 に「これをもらおうか」と植物の根か茎かも分からぬ生薬 を放り込んでいく。
ただでさえ店中に広がっている薬草の香りが、余計に強くなる。身震いするような寒さも相まって、これ以上ここに立っていたら頭が痛くなりそうだ。どんどんと重くなっていく行李を背負い直して、幻乃は彦丸の隣を、寒さに震える手で指し示す。
「これじゃありませんか? いくつ入れましょう?」
「馬鹿者、それは甘草 じゃ! 紫根は傷薬に使うもので、甘草は風邪薬に使う生薬だと教えたろう。お主らが生傷ばっかりこしらえるから、傷薬が足りておらんのだぞ!」
「……いつもお世話になります」
間髪入れずに飛んできた叱責に、幻乃はしおしおと項垂れる。彦丸が満足するまで付き合うほか、選択肢はなさそうだ。
「いいかね幻乃さん、これが桂皮 、こっちは大棗 ――」
(ああ、始まってしまった)
生薬を手に取りながら解説する彦丸に相槌を打って、幻乃は顔馴染みとなった薬屋『青吹屋』の店主とひっそり苦笑を交わし合う。彦丸は独自に薬の調合を研究していることもあってか、生薬について語らせると長いのだ。
薬の材料を仕入れにいくから手伝えと、彦丸に声を掛けられたのは朝一番のことだった。
直澄は飢えた獣に餌やりをするかのように、時折幻乃を後ろ暗い夜の斬り合いにこそ連れ出してくれるものの、昼の真っ当な仕事はひとつも与えてくれた試しがない。元は敵方の人間だったことを思えば仕方のないことではあるが、怪我も治ったのに働きもしない『ただ飯ぐらいの居候』という不名誉な肩書きには、幻乃自身、思うところがあった。
幻乃にも人並みの常識というものはあるのだ。
生かした責任を取れとは言ったが、犬猫のように飼って欲しいと言った覚えはない。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり。その日限りの仕事を求めてあちらこちらに顔を出していた幻乃を見兼ねてか、三条家のお抱え医師である彦丸は、荷物運びや力仕事の手伝いという名目で、不定期ながら幻乃に仕事を与えてくれるようになった。
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