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第67話 冬暁に旅立つ⑨
「ですが、早く離れた方が良いのは確かです。夜歩きはしたくありませんが、早めに山だけ降りてしまいましょう」
「そうだな。そうしよう。街道のそばまで行けば、身を休められる場所がある」
冬馬が先導する形で、ふたりは足早に山を下っていく。
町から十分に距離を取ったところで、幻乃はかすかに歩調を緩めると、ちらりと三条の屋敷の方角に目をやった。
「名残惜しいか?」
目ざとく幻乃の視線の動きに気づいたらしい冬馬は、振り返らぬまま、揶揄うように問いかける。
「別に」
「挨拶は済ませたのか。三条の若頭と、いい仲なんだろ。閨だなんだと言っていたろう」
舌打ちする。直澄の家臣たちと揉めていたところを、どこからか見ていたらしい。
「他所の藩主相手に、仲も何もあるわけがないでしょう」
一宿一飯ではすまない恩を仇で返す形にはなるが、元はと言えば幻乃を生かした直澄が悪い。幻乃の行動に制限はしないと言ったのは直澄本人だ。幻乃が出て行こうが直澄の敵につこうが、いちいち報告する義務もなければ、別れを告げる義理もない。
ぎり、と奥歯を噛み締める幻乃を見て何を思ったのか、冬馬は笑い混じりに歩調を緩めると、幻乃の隣に並んできた。
「情夫 には、さすがのあんたでも情がうつったか? 狐は男色嫌いだって聞いていたのに、変わったな」
「あなたには関係のないことです」
「どうかな。あるかもしれない。人肌恋しくなったら、気軽に声を掛けてくれ。あんたの相手なら、喜んで勤めさせてもらうから」
「……戦の前に死にたいか? お仲間の後を追いたいというのなら、わざわざ回りくどい言い方をしなくてもいい。今この場で冥土に送ってやる」
刀に手を掛けながら声を低めれば、慌てたように冬馬は距離を取った。
「冗談! 冗談だ! ……短気なのは相変わらずか。何でもかんでも暴力で済ませようとするなって、俊一さまもよく言っていたろう。あんたのそういうところ、俺は好きだけど、言葉で穏便に話し合うってことも少しは覚えた方が良いと思うぞ」
「生憎ですが、必要を感じません」
「感じろよ。あれだけ口酸っぱく言ってた俊一さまが気の毒だ。『狐。刀で打ち合うことは会話とは言わないのだと、何度言えばいいのかな』って」
「その声で俊一さまの真似をするのはやめていただけませんか。不愉快です」
「似てるだろう? 俺の自慢なんだ。この声のおかげで、俊一さまがこっそりお休みされたいときにも、お役に立つことができた」
心臓に悪かったけど、と笑う声を聞いていると、在りし日の主人の姿が脳裏に浮かんできた。通りがかった冬馬の腕を引いて、自分の声真似をしろと無茶振りをする俊一の姿が、見えるかのようだ。
「……あの方には、そういうところがありましたね」
「ああ。知っているか? お方様が来たばかりのころだってな――」
ぽつりぽつりと思い出を語り合う。野営の場所に着いてからも、ふたりは競い合うようにかつての主人の思い出を話し続けた。思えば俊一が死んで以来、亡き主人について誰かと語り合ったのは、これが初めてかもしれない。
俊一が生きていたのなら、自分はどうしていただろう。戦場で直澄と斬り合える日を指折り数えて待ちながら、変わりゆく時代に馴染めていただろうか。あるいは主と運命をともにする覚悟を決めて、とっくに命を落としていただろうか。
ひとつ確かなのは、こうまで深く直澄と関わり合うことはなかっただろうということだけだ。
「……たらればの話をしても、仕方がありませんよね」
「うん?」
「いえ、楽しみだなって」
「本当に戦狂いだな」
「別に戦が好きなわけじゃありませんよ。斬り合うのが好きなんです」
「同じだろ」
冬馬の声を聞きながし、幻乃は愛おしむように刀を抱え込む。
(俺は、あなたにまた会いたい)
目を閉じ、何も告げずに離れた相手をひっそり想う。
(あの日あの夜出会ったあなたに、また会いたい。直澄さん)
復讐だと言っていた。思いつく限りを幻乃から奪いたいのだと言っていた。
とっくに奪われている。
あの夜直澄に斬られた瞬間、幻乃は自分だけのものだったはずの心を、あの強く美しい男に丸ごと奪われてしまった。
「……もうすぐですね」
幻乃の独り言を、榊藩への道のりのことだと思ったらしい。冬馬が「ああ」と力強く頷いた。
「明け方になったら動こう。明日の夜までには着くはずだ。それまで、身を休めておくと良い」
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