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閑話 狐

 くるり、くるりと面を回す。  物言わず狐の面を手の内で弄ぶ藩主は、よほど奇妙に見えるのだろう。蝋燭の光を頼りに書を読み上げながらも、家臣たちは気遣わしげに視線を向けてくる。あるいは、立て続けに起きた事件のせいで、憤怒を腹のうちに抱えているとでも思われているのかもしれない。  そんな攻撃的な顔は、民にも臣にも見せたことはないというのに。   ――外向けの顔とおひとりでいるときの顔が違いすぎると、疲れませんか。  嘲りが多分に込められた声音を思い出し、直澄はそっと口角をつり上げる。  疲れやしない。これが本来あるべき直澄の人生なのだから。  望まれる反応を考えて返してやれば、面白いくらいに他人はこちらに好意を抱く。  迷える者に行くべき道を示してやれば、それだけで臣下たちは聡明な主人だと信頼を寄せてくる。    疲れるとしたら、それは他者に感情を振り回されるからだ。興味を持てない他人相手に、感情が動くはずもない。ただ頭で考えて、然るべき時に最適な言動を取ればそれでいい。簡単なことだ。  昔は違ったような気もするけれど、いつからか斬り合いの興奮以外ではめっきり心が動かなくなって、気づいたときにはこうなっていた。  直澄の心を乱すのは、今も昔もただひとり。  忌々しくて慕わしい、あの戦狂いの狐だけだ。   「お屋形さま、あの……」 「うん?」 「半蔵さまの亡骸は、ご遺族のもとにお届けしました。報告にあった|小火《ぼや》騒ぎについても、すべて鎮火したようです」 「そうか。ありがとう。……すまないな、連日こんな夜中まで働かせて」 「い、いえ! とんでもございませぬ。昨日の襲撃といい、今日の|下手人《げしゅにん》不明の事件といい、これは我ら三条藩全体に牙を剥く行為です。今こそ皆が一丸となって動くべきときですから」 「そうだな。皆の献身には、感謝している」  くるり、くるり。  人当たりのいい藩主を演じながら、淀みなく舌を動かして、臣下を労る言葉を掛ける。敬愛の視線は、しかし仮面を弄ぶうちに、困惑の色を帯びて直澄の手の上へと向かっていった。 「あの、お屋形さま。先ほどから気になっていたのですが、その面は……?」  ぴたりと手を止める。  それは、直澄の部屋の奥深くにしまわれていたはずの面だった。昨夜までは傷ひとつ付いていなかったというのに、直澄の手の中のそれには、これ見よがしな亀裂が刻まれている。 「半蔵の遺体の横に置かれていた」  狐の面に視線を落としながら、直澄は黄昏時に作られた家臣の死体を思い出す。  一太刀で首を飛ばされていた、あの死体。  下手人が誰かなど、切り口を見ればひと目で分かった。斬られた苦痛さえ、感じなかったのではないだろうか。それくらい美しく、容赦のない切り方だった。あの見事な切り口を思い出すだけで、ぞくぞくと体の芯から興奮が湧き上がってくる。  死体の傍らには、生首が丁寧に置かれていた。死者へのせめてもの敬意からか、人目を避けるようにご丁寧に布地を被せられて。  何人殺そうが罪悪感など覚えぬ異常者のくせして、おかしなところで他人に敬意を払う。あれはそういう、わけの分からない男だった。   「半蔵さまの遺体の横に……? どういう意図があるのでしょう。斬った首の代わりだとでも言うつもりなのでしょうか。こちらを挑発しているのやもしれませんな」 「挑発というよりは――」  狐の面をくるりとひっくり返し、面の内側を、戯れに己の顔へと押し当てる。面に入れられた亀裂は、嫌味なくらいにきっちりと、直澄の左目の傷跡と同じ位置に刻まれていた。   「――宣戦布告さ」  歓喜に歪みそうになる唇を仮面で隠して、直澄は背を丸める。笑い声は殺せても、震える肩までは隠せなかったらしい。心配そうに家臣がこちらを伺う気配がした。 「お屋形さま……。泣いておられるのですか? なんとお優しいことでしょう。お屋形さまのような人格者にお仕えできたこと、半蔵さまも誇りに思っていらっしゃると思いますよ。ともに戦えなかったことは悔やまれるでしょうが……」  無言のまま、直澄はゆるりと頭を振った。  皆が信じる藩主など、本当はどこにも存在しない。  仮面を被っているときが本当なのか、それとも仮面などない素の顔が真実なのか、もう直澄自身にすら分からない。けれど、家臣たちが敬愛する『お屋形さま』が夢幻であることだけは違いなかった。  騙されている者たちを気の毒だとは思うけれど、罪悪感は覚えない。見たいものだけを見せてやる方が、彼らだって幸せだろう。  長く息を吐いて、歪み切った表情をもとに戻す。狐の面を下ろしながら、直澄は思慮深く呟いた。 「……同盟藩に書状を出すとしようか。榊藩の動きによっては、争いの規模が大きくなる。世が争いに乱れるのは悲しいことだが、できる限り早急に終わらせねばな」 「はっ。仰せの通りに」  足早に部屋を出ていく家臣を見送って、直澄は狐の面を丁寧に棚に戻した。ずきりと痛む左目をそっと押さえて、恋慕う相手を想うように天を仰ぐ。 「ああ、本当に……度し難い」  そんなにも直澄と斬り合いたかったのだろうか。無関係な者たちに死と災いを振り撒いて、何も言わずに争いの場を整えに向かうほど。  そうまで焦がれられているとは思わなかった。  幻乃が何を思って出て行ったのかと考えるだけで、胸が高鳴る。    愛しい狐が招いてくれるというのなら、応えるまで。  傍らで過ごした日々を思うと名残惜しい気もしたけれど、未練には気付かぬふりをした。  ――もうすぐだ、幻乃。  心の中で語りかけ、直澄はひとり凶悪に微笑んだ。  

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