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第68話 春死なむ①

 明くる日の夜、幻乃は冬馬に連れられて、ある小さな家屋の前に立っていた。  たいまつに照らされた古びた家の前には、大勢の男たちが立ち並ぶ。一様に口を閉ざす男たちの中央には、貫禄ある顎髭を蓄えた壮年の男――榊俊次が厳しい顔で座っていた。かつての主人の実弟と顔を合わせるのは半年ぶりだが、壮健ぶりに変わりはなさそうだ。むしろ、権力を手にしたことで以前よりもいきいきと目を輝かせているようにすら見えた。   「お久しゅうございます。榊さま」  幻乃が声を発した瞬間、四方八方から一斉に刀の切っ先が突きつけられた。  殺気立った周囲の行動を、しかし幻乃は一瞥するだけで流してしまう。周りを囲むのは、顔見知りが半分と、見覚えのない若者たちが半分ずつ。想定の範囲内だ。   「……幻乃。何の用だ、裏切り者め。二度とこの地に戻るなと告げたはずだ」  俊次がおどろおどろしい声で告げる。主君に続くように、周囲を囲む男たちも、次々に口を開いていった。 「よくも顔を出せたものだな、この侍崩れの狐が!」 「忍の風上にも置けぬ不義理なコウモリ男め」 「三条の犬と成り果てておいて、なにが『お久しゅうございます』だ。生きて帰れる思うなよ……!」 「おや、手厳しい」  犬なんだか狐なんだかコウモリなんだか。  くすくすと笑いながら顔を上げれば、男たちは怯んだように口を閉ざした。威勢のいいことは言うくせに、幻乃のような小さな男の何がそんなに怖いと言うのだろう。  向けられる刃を歓迎するように両腕を広げる。これが交渉ではなく斬り合いだったのなら、さぞや心が踊る状況だったことだろうに、楽しめないのが悔やまれる。隣に並ぶ冬馬が、あの気色の悪い目でこちらを注視しているのを感じつつも、気にせず幻乃はにこやかに続けた。   「忍。侍。仰る通り、俺はそのどちらでもないし、どちらでもあります。ですが、裏切りも不義理も、すべて謂れのない言い掛かりです。我々のような者が、情報を手に入れるためなら姿も住処も偽ることくらい、ご存じでしょう?」 「何を言っている?」 「ご覧になる方が早いかと思われます」  そう囁いた幻乃は、懐から書状を取り出し、俊次に手渡した。警戒しながらも中身をあらためた俊次は、「これは……!」と驚いた様子で声を漏らす。その様子を見て、側近が興味を惹かれたように身を乗り出した。 「お屋形さま、そちらは一体?」 「……三条の屋敷の見取り図だ。警備の体制まで、詳しく書き込まれている。我々が手にしていた情報より、はるかに細かい」 「なんと……! 次の討ち入りも、これがあれば……!」 「なるほど、役に立つのは間違いない」  丁寧に見取り図を折りたたみ、懐にしまいこんだ俊次は、厳しい顔で幻乃を見据える。その視線を受け止めて、幻乃は軽やかに口を開いた。 「討ち入りの日にちがお決まりでなければ、次の満月の夜をお勧めします。三条の同盟藩が、彼の地に集う計画だと小耳に挟みましたゆえ」  ざわりと声が上がる。俊次が身を乗り出すように、幻乃を睥睨した。 「確かなのか」 「書状の写しは取ってあります」  執務のための部屋にこそ入れてもらえた試しはなかったが、直澄は寝室でも書き物をしていたし、屋敷の中にいればいくらでも書状の中身を覗き見る機会はあった。こんな風に使う予定があったわけではなく、習慣とでも言うべき職業病で集めていただけの情報だったが、備えがあれば役立つものだ。 「いや、待て。なぜその日に当てる? あちらに戦力が集まる前に討ち入る方が良いのではないか」  誰かが呟く。同調の声が上がる前に、幻乃は素早く「そうとも限りません」と否定した。

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