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戀する痛み 8
*
相変わらず忙しい日々。
他院から紹介された外来の患者さんと、他院からの転院で入院する患者さんと、救急外来からの呼び出しと、手術をする患者さんと、色んな患者さんの対応に追われる日々が、ずっと続いている。
脳外科はちょっとした判断ミスや、対応の遅れで命を落としかねない分野なので、毎日緊張を強いられて、精神的にもきつい。
わかっていても選んだのは自分だから。
ボクは弱音を吐かずに、悠貴さんの助けにならなきゃと思って、一生懸命仕事に没頭(ぼっとう)していた。
悠貴さんとはたまにしか会えないし、話すこともそうそうできないけど、挨拶を交わす程度だけれども、それでも一緒に働けているのは、幸せだった。
今日も今日とて。
忙しく走り回って、やっと休憩に入ることができたボクは、いつものように食堂に行って、適当にカレーライスを買って、一人で食べていた。
そんなボクの耳に、不意に少し離れた席に座る看護師さん達の話しが飛び込んできた。
「そういえば、羽屋総先生、明日お休みなんだってー」
「え?そうなの?珍しい」
「まあ、働きすぎだし、いいんじゃない?」
「デートかな?」
「いや・・・私もそう思ったんだけど、何だか嬉しそうじゃない感じだったから、そういう理由じゃないわね」
「そうなんだ・・・デートじゃなけりゃいいわ!」
「だよね。うちの病院の最後のイケメン独身医師。結婚しないで欲しいわー」
「わかる」
看護師さん数人でそんな適当な話しをしている。
ボクはカレーを咀嚼(そしゃく)しながら、ぐるぐると思考が回転していた。
お休みするなんて聞いてない・・・ボクに言えないこと?
それって、どんな理由が・・・。
『あれにはお見合いをさせる』
理事長の言葉が脳裏をよぎった。
もしかして・・・お見合い?
そう思ったら、看護師さんの話しにも合点がいく。
急なお休みと、嬉しそうじゃないのと、ボクに言ってくれないのと。
きっと・・・お見合いなんだ。
そっか・・・お見合い行くんだ・・・行かないで欲しかったな・・・。
なんだかんだ言って、理事長の言うこときくんだ・・・。
あれだけ理事長のこと嫌がってたのに、お見合いするんだ・・・。
なんだか心に刺(とげ)がささったように、チクチクする。
悠貴さんを信じる心が、信じたい思いが、少しずつ刺に侵食されて抉(えぐ)られて、すり減っていく感じがして。
ダメだ。こんなのダメ。
ちゃんと悠貴さんに確認しなきゃ。お見合いかどうか、本人から聞いてないし。
悠貴さんを信じなきゃ。
ボクはカレーライスをかきこむと、看護師さん達の会話が聞こえないように、急いで席を立って食堂を後にした。
午後の業務が始まるまでまだ少し時間があったから、ボクは急いで廊下を歩いて悠貴さんがいるはずの部長室へ向かった。
途中でお昼ご飯を食べにくるかもしれない悠貴さんと会えるかもしれないと、期待していたけれども、やっぱり悠貴さんには会えず。
もしかしたら部長室にもいないかも・・・。
そんな不安を感じながら、部長室の白いドアの前に到着した。
恐る恐る、軽くノックをする。
「どうぞ」
中から悠貴さんの低い声が聞こえて、ほっと胸を撫で下ろしながら、ボクはゆっくりとドアを開けた。
もしかしたら誰かいるかもしれない・・・。
悠貴さんの周りにもたいていいつも人がいて、一人でいる時間なんてほとんどない人だから。
おどおどしながら顔を出してそっと中を覗くと、悠貴さんは一人で、机に座って書類を読んでいた。
良かった・・・!
悠貴さんは書類から顔を上げて、ボクを認識するとふっと、嬉しそうに微笑んでくれた。
その笑顔で、いきなり部屋にきたのが迷惑じゃないとわかって、ボクは安心してドアを開けて中に入って、ドアを閉めた。
「薫。どうした?」
「はい・・・あの・・・」
ボクは悠貴さんが座る机の前まで歩いて、黒い髪を一つに結いて、切れ長の目を細めて、ボクを愛おしそうに見つめてくれる悠貴さんを、正面から見つめた。
「あの・・・明日、お休みするって聞いて・・・」
「ああ・・・」
悠貴さんは書類を机に置くと、すっくと椅子から立ち上がって、机を回ってボクのほうに来てくれた。
「何かあったんですか・・・・・・?」
「いや・・・そういうんじゃない・・・」
歯切れの悪い言葉を口にしながら、悠貴さんは隣までくると、不意に長い腕を伸ばして、ボクの腰と背中を引き寄せて、その広い胸に抱きしめてくれた。
温かくて逞(たくま)しい胸に抱きしめられて、いつものその愛おしい熱に、固い感触に泣きそうになる。
お見合いなんかしないですよね・・・?
しないで。
お願いだから。
ボクは悠貴さんの背中におずおずと手を回して、ぎゅっと、背中の白衣を握り締めた。
「なにかあったんですか?」
もう一度問いかける。
悠貴さんは、ボクの頭を撫ぜながら、腰を強く引き寄せて、きつくきつく抱きしめる。
「ちょっと野暮用(やぼよう)だ。薫が心配するようなことじゃないから、大丈夫」
「・・・・・・本当に?」
「ああ。大丈夫」
それ以上は聞けなかった。
これ以上は聞くのが恐かった。
悠貴さんが『大丈夫』って言ってくれているから。
だから、絶対に大丈夫。
ボクは信じることしかできないから。
悠貴さんの言葉を、悠貴さんの熱を、悠貴さんの気持ちを。
信じることしかできない。
なんて無力。
ボクは髪を撫ぜてくれる悠貴さんの大きな手を感じながら、その背中にしがみつく力を強くした。
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