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戀する痛み 26
*
悠貴の車の助手席に薫が座っている。
そんな当たり前の光景が何だか久しぶりなものになっていることに、二人とも気がついていた。
ずっとこうして二人になりたかったのに、なのに、今は、この空間が時間が、少しだけ気まずくて苦痛だった。
仕事が忙しいのと、悠貴の父親の問題と、悠貴のお見合い相手の問題で、こうして二人で会う時間を取ることが難しかったから。
わかっていても、それでも。
なんだか少し、存在が遠くて、気持ちが遠くて、以前みたいに嬉しいとか好きとか、それだけの感情ではいられなくって。
特に薫は、悠貴にお別れを言うつもりでいた。
もうこれ以上一緒にいてはいけないから、自分のせいで悠貴の人生を捻じ曲げられないし、狂わせることができないと、わかったから。
一方悠貴は、薫が例の女性のことで勘違いをしていることや、少なからず怒っていると思っているから、弁解と釈明をしなければいけないと思っている。
それぞれがそれぞれの思惑を抱えて、無言のまま車は夜の黒を走り抜けて、悠貴のマンションの地下駐車場へと滑り込んでいった。
いつものその場所が、いつのもの光景が、なんだかすごく懐かしくて。
それでもきっと、これが最後だと思って、薫は少しだけ、瞳の縁に涙を滲ませた。
それを勘づかれないように、顔を背けて、自分で車のドアを開けて薫は外に出る。
いつもは悠貴がドアを開けてあげるのを待っている薫が、自分でドアを開けたことに、悠貴は少しだけ驚きながら、薫がいつもとは少し様子が違うことに、気づき始めていた。
怒っているとか、不機嫌とかって様子ではなく、何かを諦めているような、達観しているような、覚悟を決めているそんな表情をしている。
そんな薫を今まで見たことのない悠貴は、少し戸惑いを感じながら、うっすらとした怖さも感じていた。
いつもの可愛いだけの薫じゃないと、自分の庇護下にあった弱々しい薫じゃないと、悠貴は感じ取っていた。
薫が自分で車から降りて、ドアを閉めると真っ直ぐにエレベーターへと向かったので、悠貴も車の鍵をかけてエレベーターへと向かう。
薫の後ろ姿を見ながら歩くのなんか、ほとんどなかったことに、悠貴は気づいた。
いつもいつも薫は自分の少し後ろを歩いていた。逆らったりせず、追い抜いたりせず、そっと後ろを歩いていた。
そんな薫が、今は自分の手を借りずに、きちんと前を向いて、自分の前を歩いている。
それが、怖かった。
嫌な予感だけが、胸をよぎっていく。
エレベーターが降りてくると、薫は後ろを振り返ることもなく、すっ・・・とエレベーターに乗って、くるりと振り返った。
いつもだったら悠貴と目を合わせる薫が、目を合わせることなく、そっと目を伏せて、悠貴がエレベーターに乗ってくるのを待っている。
その様子に少し戸惑いながら、悠貴はエレベーターに乗り込むと、部屋がある階数ボタンを押して、閉めるを押した。
ゆっくりと動き出して、その後すーっと速度を上げてエレベーターが上がって行く。
悠貴も、薫も、無言だった。
いつもなら他愛もない会話をしたり、そっと体を寄せてキスをしたり、そんな逢瀬を愉しんでいたけれども、今日は二人ともそんな気分にはなれなかった。
エレベーターが無情な音を出して止まって、扉が開く。
悠貴がいつものように先に降りて、薫が後から続いて出る。そのまま悠貴が先を歩いて、薫を後をついてきて。
いつも視界の端に映るお隣さんが廊下に出してる子供の三輪車とか、気にもしていなかった物に気が飛んでしまう。
それくらい、今日の薫の様子がいつもと違っていて、変に緊張してしまっている。
とにかく薫には全ての事情をきちんと話して、誤解をとかなきゃならないと、そう思っている悠貴は、ちょっと覚悟を決めて玄関の鍵を開けて、薫を部屋へ招き入れた。
薫は招かれるままに玄関に入って、靴を脱いで、真っ直ぐにリビングへと向かう。
リビングの中はいつもとあまり変わりのない様子だった。
黒革のソファに薫が買ってきたグレーのクッションが3つ置いてあって、白いテーブルには郵便物が数点放置されている。
あとは脱ぎっ放しのワイシャツがだらしなく放置されていて、綺麗好きな悠貴がそうせざるを得ないくらい、忙しかったということを物語っていた。
薫は久しぶりに入った悠貴の部屋に、少しだけ泣きそうになりながら、それでも今日が最後だという覚悟で、リビングのソファのいつもの場所にそっと、座った。
自分が買ってきたありきたりなクッションを、悠貴が今でも使ってくれている事実に、薫は少し決心が揺らぎそうになっていた。
黙りこくったままの薫を見て、悠貴は少しでも薫の強ばった空気を和らげたいと思い、いつものようにコーヒーを淹れて、いつものマグカップに注いで、薫の待つリビングへと向かう。
薫が神妙な面持ちで固まったままでいるその前に、そっとテーブルにマグカップを置くと、弾かれたように薫が顔をあげた。
今にも泣きそうな、大きな瞳が見開かれて潤んでいて、目の縁いっぱいに涙が滲んでいた。口唇だって、いつもは少し紅の強い桜色なのに、今は血色が悪くて青味がかって見える。
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