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第2話
聖帝と呼ばれた明治天皇が崩御し、数年を経た帝都・東京。
世の中は幕末から明治、明治から大正へと進むにつれ、その姿を刻々と変えている。
都心には近代化された洋風建築物が並び、市電や自動車も走るものの、ひとつ裏通りへと入ればまだまだ江戸の風情も残っていた。
人々もまた和装姿が多いとはいえ、異国の装飾品や洋装を取り入れるものも増え、戦争特需で莫大な利益を得た商人もあれば、没落していく士族も多い。
社会は古いものと新しいもの、和と洋、様々な価値観と風俗が渾然一体となっていた。
十七歳になった藤条 志乃は、二人の男と黒塗りのフォードの後部座席に座り、住み慣れた邸宅が遠ざかるのをぼんやりと目で追っている。
今、自分がどこへ連れて行かれようとしているのか、志乃は知らない。
おそらくどこかで働かされるのだろうと、漠然と想像するだけだ。
身に着けているのはツイードの上下とシャツ、父に買ってもらったばかりの革靴で、手にすることが許された荷物は、ごくわずかだった。
着替えの下着と、洗面道具。それにがらくた類と判断されたらしく、差し押さえから見逃して貰えた幼いころの思い出の品々が入った和紙の小箱。それらを入れた風呂敷包みが一つだけだ。
すがれるものはそれだけというように、志乃はその包みをしっかり胸に抱いていた。
「もう少し急いでくれ。約束の刻限に遅れるとまずい」
右隣のフロックコートの男が、金鎖の懐中時計を見ながら運転手に言う。
「夕凪さんは忙しい方だからな。納得のいく商談ができるといいんだが」
もう一人の、左側に座った男は口ひげを撫で、ちらと志乃に目をやった。
「あくまでも実物を見てからでないと、どうにもならないとのことだ。元華族というだけでも、大変な価値だと私などは思うんだがね……」
やがてフォードは高台の住宅街を抜け、遠くから見るとこんもりと山のように緑の盛り上がった一角へと進む。と、それらの緑をぐるっと包むように延々と続く石の壁と、立派な青銅の門が見えてきた。
門の脇には警官のような服装をした門番が二人いて、手前には守衛の詰め所がある。
そこでクラクションを鳴らすと内側に向かって、門が軋む音を立てて開いた。
大きな建物の前の車止めで、志乃は降ろされる。二人の男も一緒に降りたが、彼らの様子はなんとなく卑屈な、おどおどしたものになっていた。
入り口には絣の着物の尻をからげ黒い股引きを履き、背に朱色で紅と描かれた白い印半纏を羽織った、大柄の男が立っている。
男たちは怖気づいているのを隠すかのように、えへんと大きく咳払いをした。
「君。私たちは夕凪 さんと約束しておるものだが」
「聞いておりやす」
半纏の男は答えると腰を低く屈めた姿勢で、こちらへ、と手を差し出して歩き出す。
外観は高級料亭風の日本家屋だったが、そこを通り抜けて案内された部屋は、和洋折衷の派手な造りになっていた。
窓枠には黒塗りの障子が嵌っているが、家具は猫足の舶来品ばかりだし、天井には洋灯が取りつけられている。
室内は広く、何組もの人々が話せるようになっているのか、花鳥風月が描かれた屏風で何箇所にも仕切られていた。
一番奥の長椅子に同乗してきた男二人が座り、志乃は反対側の椅子に腰を下ろす。
「しかし、倒れた会社を後継者が放って逃げるとは。藤条さんも災難ですな」
「まぁ今更ではあるが、そもそも彼に後継者としての器量はないと思っておったよ。……ああ、君、少しネクタイが曲がっている。夕凪さんがお見えになる前に直したまえ」
そわそわしている男たちは倒産した志乃の父親の会社の、債権者たちだった。
「待たせたかい、悪いね。めんどうな客がいたもんで」
はっと男たちが顔を上げる。
志乃が入ってきたのとは反対側の障子が音もなく開いて姿を見せたのは、数人の半纏の男たちを引き連れた、痩せて暗い目をした隻眼の男だった。
半纏の男たちよりずっと小柄で非力そうなのだが、明らかにこちらの男が彼らを束ねているのだと一見してわかる。
肌も髪も色素が薄く、前髪の隙間からは、右目を覆っている革の眼帯が見えた。
ぞろりと着流した黒縮緬の着長には、裾に白銀の羽が舞っている。裏地が緋色で裏打ちされているために、裾が動く度にちろちろと蛇が舌を出しているようだ。
猩々緋の帯も、銀鼠の大島紬の長羽織も高価なものなのだろうが、襟を思い切り後ろに落として着ているせいでだらしなく、いかにも悪行に染まっているならずものの身なりに思えた。
切れ長の瞳がちらりと一瞬、なんの感情も浮かべずに志乃に向けられる。
「こくじょう、しの、と」
すぐになにやら書類に視線を移して男が言うと、債権者たちは大きくうなずいた。
「どうだろう。先日書面でお伝えしたとおり、正真正銘の華族で、夕凪さんのお眼鏡にもかなうと思うのだが」
その言葉で、志乃は隻眼の男が夕凪という名前なのだということと、債権者たちが顔色を伺う立場の相手なのだと知る。
夕凪は尖った肩を揺するようにぶらぶらと歩いてきて、ふいに志乃の顎に手をかけた。
細い指は、氷のように冷たい。
反射的に志乃は顔を背けたが、すぐまた強引に正面を向かされる。
「なるほど、華族さんねぇ。確かに面は品があるし綺麗なもんだ。目元がちっときついがこういうのを泣かせたい客もいるだろう。悪かねぇな」
勝手に値踏みされて、志乃は頬が熱くなるのを感じる。
こんな無礼な扱いを受けたのは、生まれて初めてのことだ。淡い色をした片方だけの瞳を睨みつけると、薄い唇が皮肉そうにつり上がった。
「だが、面だけじゃ駄目だ。……おい」
夕凪が言うと、背後に控えていた男たちがぐるりと志乃を囲んだ。
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