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第9話

 ───今から十年前。  国領の家は、代々藤条家の当主を補佐してきた家老の末裔だった。  広大な藤条家所有の敷地の一角に国領の家は住まいを与えられ、年の近い友人がいなかった志乃は、秋成にいつも遊んでもらっていた。  母親を早くに亡くし、忙しい父親にはほとんど構ってもらえず、志乃にとって秋成はだれよりも近しく慕っている存在だった。  父が出張中の不在ときに高熱を出したときも、秋成は一晩中傍にいてくれた。  志乃様、志乃様と、父の威光におもねってちやほやするだけの多くの者たちと違い、秋成は兄のように接してくれる。  いつも帰り際には、明日もまた会おうねと指切りをしてからでないと、志乃は秋成から離れたくなかった。  だが秋成には学校があったし、学友と出かけて帰宅が遅く、会えない日もある。 「針千本、飲むって約束したじゃないか。秋成の嘘つき」  翌日に半べそをかきながら志乃が怒ることも度々だったが、ある日秋成はそんな志乃に美しい貝絵をくれた。  半分同士がお互いを呼んで会わせてくれる、二人だけの大切なお守り。 「針を飲んで死んだら、会えなくなるものな。これで我慢する」  志乃は毎晩、枕元に貝絵を置き、緋色の牡丹を見つめて眠った。  いつでも、いつまでも秋成の傍にいたい。幼いころ、志乃にとって秋成は誰よりも大切で特別な存在だった。  秋成は七歳年上の十四歳。 あの頃は幼い志乃を誰よりも可愛がり、仕事と社交で忙しい父より、一緒にいる時間は長かったに違いない。  一緒に遊んでそろそろ帰宅する時刻になると、秋成の家の縁側でそれぞれの貝絵をそっと合わせる。 夕日を受けて光る金箔の輝きを閉じ込めるようにすると、互いがかけがえのない存在なのだと実感できた。  しかしやがて、そう思っていたのは志乃のほうだけだった、と思い知らされる出来事が起きる。  ある日のこと、国領の父親と志乃の父親が大喧嘩をした。どちらも生真面目ゆえに仕事に関する衝突や激論は珍しくはない。 だがその日以来、国領の父親は藤条家に反発するようになり、数度の衝突の後、家族揃って姿を消してしまったのだ。  その朝、国領の家を訪ねた志乃は空家の前で、愕然として立ち竦んでしまった。  前日にまた明日も会うと約束したし、秋成に変わったところはまるでなかったのに。  なぜ一言も告げてくれなかったのか。手紙さえ残してくれなかったのか。  泣いても泣いても枯れることなく涙は延々と溢れ、しまいには目が腫れ上がって開けていられなくなるほどだった。  父親はもとより、その部下たちにどんなに尋ねても事情は教えてもらえなかったが、唯一詳細を話してくれたのが、次期後継者の叔父だった。  国領の長男に懐いていたそうだが、あれしきの腹の内も読めずに気を許してどうする、狙いは藤条家の財産と事業だったのだぞ、と叔父に咎められ、さらに志乃の悲しみと憤りは深くなる。  それでも志乃は長い間、もうすぐきっと秋成から連絡がある、と信じていた。 そしてすべては誤解であり、自分も早く志乃とまた会いたい、という文面の手紙がくることを待ち望んでいた。  どうかもう一度、秋成に会わせて欲しい。 志乃は貝絵を見つめ、心の中で何度も唱えた。  しかし何年も毎朝毎晩、そうして貝絵に祈るうちに、次第に志乃の心にはあきらめと失望、そしてふつふつと怒りが湧き上がってくるようになる。  連絡先くらい教えてくれてもいいではないか。父親同士の確執があっても、自分たちには関係ないはずではないのか。 父親のことについてだって、なにか申し開きがあるならすればいい。他の人間は知らないけれど、誰がなんと言っても自分だけは秋成が言うことを信じる。 秋成だってそれはわかっているだろうに。  それさえしないということは、やはり叔父の言う事が正しく、後ろ暗いところがあって連絡をよこせないのか。 そしてそれが事実だとするのなら。  自分は秋成にとって、単に父親の仕事のために利用するだけの相手だったのか、というなにより辛い結論に達してしまう。  本人からの弁解がない限り、頭の中で悲観的な想像だけが広がり、確信に変わっていく。  金目当て、父親の出世のため、うるさい子供だと思いながら嫌々相手をしていたのではないか。無邪気に慕う志乃を、バカな子供だと嘲笑っていたのではないか。  志乃は秋成がこの世の誰より、世界中で一番大好きだったのに。 嘘つき、という拗ねた子供のような感情はいつしか、裏切り者、というさらに恨みのこもったものとなっていく。  それでも、志乃は貝絵を捨てはしなかった。会いたい気持ちはやはりある。  しかしもはや再会を喜ぶというよりは、せめてなにか一言でも怒りをぶつけてやらなくては気が済まない、という鬱屈した思いのほうがずっと強くなっていた。         

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