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第15話

───どうせろくなことは言われないだろう。 夕凪がなにも言っていないうちから志乃は仏頂面になっていた。 白い煙が、ゆらゆらと廊下に漂っている。 「……銀花、お前は見世に出なくていい」 「どうしてですか?」  聞いたのは志乃ではなく、不思議そうな顔をした里雪だ。 「まだ銀花には、馴染みのお客さんもいないのに」 「ん? そりゃあ……さっきお前ら二人で、庭をぷらぷらしてただろ。そのときに銀花を見初めた客がいるんだよ。いいからお前はさっさと支度しろ、里雪」  はい、と素直に返事をして里雪は自室に戻る。 「お前も部屋に入りな」  言われて渋々と志乃は襖を開けた。と、夕凪も一緒に部屋に入ってくる。 「なんだよ。ここで待ってれば、客がくるんだろ」  見世に出ても客がつかなければいい、と密かに期待していた志乃は、夕凪の言葉にがっかりしていた。 まさかこんなにすぐ客をとらなくてはならないとは。  苛々として本当は出ていけと怒鳴りたかったが、里雪に迷惑がかかっては、と志乃としてはかなり自分を押さえて言った。 「別に逃げたりしないし、あんたがここにいる必要なんてない」 「いや、それがちっとばかり変わった客でな。とりあえず緋襦袢だけ着てこい。そっちで待ってるから」  反抗的な志乃の口調を気にもせず、夕凪は布団の敷いてある隣室にいこうとする。 「そんなこと言われても、俺、まだ……」  一人で緋襦袢が着れない。口ごもっていると、億劫そうに夕凪が振り向いた。  志乃がまごつく理由を察したらしく、肩を竦める。 「ご子息様はずっと洋装でおられました、ときやがったか。仕方ねぇな。着せてやるからさっさと脱ぎな」  里雪にならば抵抗なく着せて貰うのだが、夕凪の手を借りるなど嫌でたまらない。  こんなことなら、里雪が着つけてくれたときに、もっとしっかり覚えておけばよかったと後悔する。だが、今となっては仕方ない。 志乃が溜め息をついて木綿の襦袢を脱ぐと、夕凪は煙管を仕舞って緋襦袢を着せつけていく。これではまるで、大きな人形か手の掛かる子供のようだ。 志乃はその間、恥ずかしさでそっぽを向き、部屋の中を眺めていた。  こちらの部屋は、主に日常生活のための部屋で、食事も若い衆が運んできてここでとる。  柱や障子と同じく家具も黒塗りで、箪笥には蒔絵の飾り模様が入り、天井から吊るされた洋灯に反射してきらきらと美しい。  その横には衣桁があり、深い藍色の地に、鞠や折鶴が色とりどりに描かれた打ち掛けがかかっている。 明日の食べ物にさえ困っているとても貧しい者にしてみれば、御伽の国のように贅沢に思える暮らしなのかもしれない。 しかし、表面的にはどんなに絢爛豪華で美しく見えても、ここは監獄であり、肉食獣の餌場も同じだった。  どんなにひどく食い散らかされても、色子には嫌なことを嫌だと言う権利はない。 例えそれが死ぬより辛いと感じる、屈辱的なことであってもだ。  秋成にされたことの心と身体の苦痛がありありと蘇ってきて、志乃は自分の身体を両腕でかき抱いた。 我慢するなど無理だ。二度とあんなことをされたくない。  強烈な嫌悪感に、吐き気がこみ上げてきてしまう。  しかしもう、志乃の身体は自分のものではないのだった。 金で買われて売られる、紅天楼の商品なのだから。  室内には鏡と化粧道具一式も置いてあり、まさか化粧までされるのかと思ったが、緋襦袢を着せ終えると夕凪はさっさと寝室の襖を開けた。  この部屋は外に通じていないため暗く、すでにぼんぼり型の洋灯に明かりがつけられて独特の怪しい雰囲気をかもし出している。 「次からは緋襦袢くれぇ、まともに着れるよう練習しとけよ」  夕凪はつぶやくと襖を閉め、懐から黒い頭巾のようなものを取り出した。 「じゃあ、銀花。そこに正座しな」  敷布団の上に座らされ、なんだろう、と不安になる銀花の背後に夕凪は回った。 「別に怖がる必要はねぇ。ただ、嗜好の変わった客なのさ。普通より揚げ代もはずんで貰ってるから、四の五の文句言うんじゃねぇぞ」 「怖がってなんか」  ない、と言いかけた志乃は、ふいに視界を塞がれて思わず口をつぐんだ。  しゅ、と頭の後ろでなにか結ぶ音がする。 「なんだよ、これ」  目元に手をやると、滑らかな革に指先が触れた。ぴったりと肌に張りつくような、薄いなめし革で、完全に隙間がなくなにも見えない。 「ことが終わって客が部屋から出るまで、絶対にそいつを取るな。それが客の注文だ」

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