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第17話

「な……ま……え? 俺の?」  すぐに返答が、手のひらに書かれた。 『そうだ』 「……銀花です。……あなたは?」 『必要ない』  見えない分、意識を手のひらに集中すると、今度は一度で書かれていることが伝わった。 「言いたくないならいいけど……」  適当な偽名を書けばいいのに、嘘が苦手なのか、遊びに不慣れなのかもしれない。 だが、そこに悪い感情は持たなかった。 再びすらすらと指先が動き出し、志乃の問いとは無関係の文字を書いた。 『今夜が初めてか』 「え……ああ。……いいえ、違います」  秋成を一人目とすればのことだが、今日が初見世だったということは、本来なら最初の客と言わなくてはいけなかったのかもしれない。  こういうことはどこまで正直に答えるべきなのだろうか。 夕凪には年は十八歳と偽れ、と言われたが、それ以外はなにも聞いていなかった。  とまどいながらも、これで嫌われてこの客が離れてもいずれ別の客がつくだろうし、そのうち里雪にでも聞いてみようと考える。  父の身を考えれば、逃げ出すことはできない。 だがまだとても、色子として真面目に仕事に励み、精進しなくてはという気にはなれなかった。 なんとかこの場をしのぎ、どうでもいいから早く朝を迎えたいというのが志乃の本音だ。 「俺はまだ仕組みがよくわからないけど、水揚げっていうのはもうされたから。乱暴で、最低で、ひどい男が相手で……。でも、金で買われる色子は、なにをされても仕方ないんだろうけど……」  次の言葉が書かれるまでは、かなり間が開いた。 志乃が、どうしたのだろうとそわそわし始めたころ、ようやく指先が動く。 『そんなことはない』 「でも、事実です。売られた牛や豚と変わらないし」 『ちがう』  手のひらに力強く書かれる。と、背後からぎゅっと抱きすくめられて志乃は身体を強張らせた。 「……あなただってそうでしょう? 色子を一晩買うのはすごくお金がかかるって聞きました。だからその金額分、好き勝手にすればいいんです」  自分で言っておきながら、牛や豚と同じという言葉が無償に辛くなってきて、志乃は投げやりに言う。 しかし、客は志乃を背後から抱いているものの、まだことに及ぼうとはしなかった。 「ええと。なんていうか、俺は慣れてなくて……」  怖れる気持ちとは別に、あまり気の長くない志乃はこのじわじわと真綿で首を絞められるような状態が、もどかしくなってきていた。 「お客さん。……気を使ってくれてるのかもしれないけど、するなら早くしてください。いつされるんだろうって身構えてると、疲れるので」  強がって、こんなことはなんでもないのだ、というように無感情な声を作って言い放つ。 しかし言葉とは裏腹に、またも志乃の身体は細かく震え始めている。 「最初が、すごく痛かったから、それでちょっと……でも、平気だから」  志乃は怯える自分が恥ずかしく、奥歯を噛んで震えを止めようとした。  しかし、やはり客はなにもしてこようとしない。背後から包みこむように両腕を回し、軽く志乃の手首を握ったままだ。  不快にさせたのだろうかと心配になってきたが、そういうわけではないらしい。 『このままでいい』  再び書かれた文字に、志乃は首を傾げる。 「このまま? だって、俺を買ったんだろ? なにもしなくていいのか?」  思わず敬語も忘れて問うが、それも客は許容してくれるらしかった。  安心しろ、と言うように、志乃の前髪を優しくかき上げてから指先を動かす。 『買ったのだから好きにする』 「そりゃ、別に……俺は楽でいいけど」  そうは答えたものの、客の書いていることがどこまで本当なのかわからない。 油断させておいて、突然豹変して襲い掛かってこないとも限らないし、志乃は警戒を解かないまま身を固くしていた。  だが客は、本当にいつまでたっても抱擁と、髪や頬を撫でる程度の愛撫しかしてこない。  その合間に指文字で、空腹ではないか、身体の具合はどうかなどと聞いてくるだけの繰り返しだ。  しかも、客に対して失礼だったかもしれない、と心配になるようなことを志乃がうっかり口を滑らせて言ってしまっても、優しい接触に変化はない。 よほど気性が穏やかなのか、酔狂な変わりものなのだろう。 『またくる』  最後にそう書いて客が退出の支度を始めるころには、志乃の緊張はすっかり解けてしまっていた。 「……あの」  礼を言うべきなのだろうか。もしくは客なのだから、見送ったりするものなのだろうかと考えるが、この目隠しではそれもままならない。 どうしようかと迷っているうちに、衣擦れと畳を踏む音の後、障子を開閉する音が聞こえてくる。  そして部屋の中からは、他人の気配が消えてしまった。  志乃は布団の上に座ったまま、ゆっくりと目隠しを解く。やはり、室内には自分一人しかいない。  目隠しをさせられる前と、なに一つ部屋の様子が変わっていないため、まるで夢でも見ていたような気がしてくる。 けれどそうだとしても、悪い夢ではなかったな、と志乃は思った。

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