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第19話

それから志乃は、仲のよかった数人の学友を思い出して、苦く笑った。 「俺がここにいると知っても、友達なら物なんか贈るはずがない。遊郭にいることなんて、知らないふりをしてくれるだろうから……」  沈む声を励ますように、手のひらにすらすらと文字が書かれる。 『なにか欲しいものはあるか』  自分が贈っていると言わないくせに、またなにか買ってくれるというのだろうか。 ろくに色子の顔も見ないうちに目隠しはさせるし、相当変わっているだけあって、怒ったり喜んだりという感覚が人と違うのかもしれない。 それにおそらく、よほど人がいいのだろう。  そういう相手なのだと思ううちに、志乃の肩からはますます力が抜けてきていた。 「……ない。ないけど、俺のことを気遣ってくれるのなら、なにを貰っても嬉しいよ。だって、誰かが俺が喜ぶかなって、考えたり選んだりしてくれることが嬉しいから」  だから自分が贈り主だと白状して欲しいのに、客はそうとは言ってくれない。 そっと頭を撫でてくれ、そうされているとますます気分がくつろいできた。 「あ。そういえば欲しいものがあった……けど」  志乃はふっと、今一番自分が求めているものを思いつく。 しかし、それが叶うはずがないことは思い知っているため言いよどんでいると、客が催促してくる。 『なぜ言わない』 「……無理だってわかってるから。望むだけ虚しくなる」 『教えてくれないか』 「…………」  ───言っても、無駄なのに。 心の中でつぶやくが、それをこの、人のよい客に言うのは悪い気がした。 だから正直に、小さな声で囁く。 「……自由」  案の定客は動きを止め、じっと志乃を抱き締めるばかりだ。  けれどそうしていてくれると、なんとなく癒されていく心持ちがする。 真っ暗でなにも見えず、優しい人のぬくもりだけがすべての状態だから、こんなふうに心の底を晒す気になれたのかもしれない。 「それと、きちんと学校も卒業したかった……こんなことなら、もっと勉学に励んでおくべきだったと考えたりもするよ」 『学ぶことはここでもできる』  客は続けて、いくつかの本の名前を書いた。 聞き覚えのある高名な文学や数学の専門書の書籍名に興味がなくはなかったが、志乃は首を横に振る。 「あなたって、本当に変わった人なんだな。俺の格好を見ろよ。それにこの部屋を」  客に悪気はないのだろうが、つい志乃の言葉には棘が混じった。 「ここでそんな知識を身につけて、なんになるって言うんだ。帝大受験でもさせてくれるならともかく、ただ毎晩、男と寝るだけなのに」 なげやりに言ったのだが、客はことさら優しく指先を滑らせる。 『いつかここを出たら役に立つ』 「ここを出る……?」  逃げ出す以外にそんなことを考えたことはなかったが、考えてみれば年寄りの色子はいないのだから、いずれは出られるのだろうか。 「……そうかな。……そんな日が、くるのかな」 『必ずくる』  身体を悪くしたり、年をとって色子としての価値がなくなったら、遊郭から出してもらえることは有り得るかもしれない。 いずれにしても借金には縛られたままなのだろうが、外で普通の仕事ができるのならばそれ以上望むことはなかった。 「それならいつか……もう一度、普通の生活がしたいな。自転車に乗ったり、父上に小言を言われたり……」  とりとめのない志乃の繰言を、時折手や髪を撫でながら、客はじっと聞いていてくれる。  そうしながら以前は緊張していてわからなかったが、自分を包みこむ身体から、かすかによい香りがしてくることに志乃は気がついた。 知っている香木や麝香などとは少し違う。 薄荷のように爽やかで、少し薬品のような感じもしたが、好きな香りだ。 客が腕を動かすと同時に、ふわりとかすかに香ってくる。 『欲しいものがたくさんあるじゃないか』 「そうだね。あるけど……手に入らないものばかりだ」 『きっと手に入る』  本当だろうか。まだあきらめなくていいのだろうか。 「でも、俺……信じて、裏切られるのが嫌なんだ。最初から信じないで、悪いことを想定しておけば、必要以上に辛い思いをしなくてすむだろ」  もう一度、一文字ずつ心をこめるかのように、指先が志乃の手のひらをなぞる。 『信じろ』  姿や名前を隠したままでそんなことを言われても、あまり説得力を感じない。  そう言いたかったが、口には出さなかった。

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