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第20話
この客が正体を詮索されることを相当に嫌がっているのはよくわかっているし、責めるつもりもない。
「……おかげで少し、気が楽になった。俺、自棄になりかけてて……いっそ、生きていても仕方ないと思ったこともあったし」
ぎゅっと、手首を握ってくる客の指に力がこもった。
『そんなことは』
「うん、もう考えていない。一瞬だけだよ。だって今の俺には、生きる目的がある」
『目的?』
「ある男に、復讐がしたいんだ。だから、それまでは絶対に死んだりしない。生きてここを出て、せめて一矢報いるまでは」
復讐という物騒な言葉に驚いたのか、客はしばらく動きを止めた。
だがややあって、再び指を滑らせる。
『それなら元気でいないと』
「ああ。そう思って、食事だってきちんととっているんだ。それに、俺の借金が他の色子にいったら悪いから。だから二度と、死にたいなんて考えない」
それでもさらに客は念を押してきた。
『約束するか』
「いいよ。いつか生きてここを出るって、約束する。顔も知らない人との約束なんておかしな感じだけど……でも、俺なんかを心配してくれて、ありがとう」
礼を言うと暖かな客の手は満足したかのように、再び飽くことなく志乃の髪を撫でてくれる。
なにも見えず、息遣いさえ聞こえはしない。とても奇妙な気持ちだった。
「なんだかこうされてると、子供の頃に返ったみたいだ……」
小さな声で言うと、客の手は一層優しくなる。しかし、いくらなんでも毎回これだけで大枚をはたいた客が満足するとは思えない。
けれど段々と優しい愛撫の心地よさと、時々ふっと漂ってくるよい香りに、志乃は眠気を誘われてくる。
そして志乃はこの晩、紅天楼にきてから初めてぐっすりと心地よく、そのまま朝まで熟睡してしまったのだった。
「そんなお客さん、聞いたことないよ」
ある日の午後、庭園のベンチでひなたぼっこをしながら目隠しをさせる客のことを打ち明けると、里雪はくりくりした瞳をさらに大きくする。
この日はとても暖かく、サンルームより庭園で歓談している色子たちが多い。
彼らには聞こえないように、志乃は里雪の耳元で言った。
「俺もなんだか、狐に化かされたのかなって思うところだった」
初回と同じく目が覚めたときには客の姿だけでなく、誰かがいた痕跡さえない有様で、先刻すれ違った夕凪にお疲れさん、と言われなければ、もう少しで志乃はすべて幻だったのだと思うところだった。
その後も客は度々訪れてくるが、いつも同じようなことを繰り返すばかりで一向に手を出してくる気配がない。
だから志乃にとっては楽というだけでなく、客との逢瀬は和み、心落ち着ける時間となっていた。
「狐だっていいじゃない、そんなに優しくしてくれるなら。お大臣だからって無茶をする、ひどいお客さんもいるんだよ」
「そうなのか……」
確かに秋成だってかなりひどかった、と志乃は眉間に皺を寄せてうなずく。
荷風の客とかいう噂があったが、あんなのを相手にしている色子は災難もいいところだろう、と内心で毒づいた。
「運がよかったよ、銀花は。できたらそのお客さんが贔屓にしてくれて、ずっと通ってくれたらいいのにね」
「うん。でもこれからもきてくれるとは限らないからな。実は呆れたか、気の毒がっているのかもしれないし」
「呆れる? どうして?」
里雪は不思議そうな顔をする。
「あっ、それは、つまり。俺はお世辞とか下手だろ。愛想もないし」
慌てて志乃は嘘の説明をした。最初の晩は怖くて震えが止まらなかったから、などとはみっともなくてとても言えない。
「確かに、銀花は口が悪いからね。でも、お客さんの好みって様々だから」
くすくすと笑う里雪に、志乃は胸を撫で下ろしてうなずいた。と、がやがやと賑やかな声が近づいてきて、そちらを振り向く。
「なぁ、銀花は今日もまた見世にはでないのか?」
少し離れた、今は葉も花もつけていない藤棚の下で話をしていた顔見知りの色子たちが、二人のほうへと声をかけてきたのだ。
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