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第24話
この人は決して怒らない。なにを言っても優しくしてくれる。
本当に本音を晒してしまっても大丈夫なんだ。
きりきりと硬く限界まで引き伸ばされていた楽器の弦がたわむように、張り詰めていた志乃の神経が緩む。
刹那、関を切ったようにはらはらと涙が溢れてきた。
「俺は、なにも悪いこと、していないのに。……うちに、帰りたい。昔に戻りたい」
顔を覆って泣き崩れる。客はしばらく身じろぎもせずに抱き締めていてくれたが、やがて泣き疲れ、ようやく嗚咽が静まってくると、両膝を合わせたまま抱え上げられ身体を横抱きにされた。
壊れ物でも扱うように顔を覆った手をどけられ、柔らかなハンカチーフらしき布が、目隠しから頬に伝う志乃の涙を拭ってくれる。
慈しむように接してくれる相手に、志乃はいっときここがどこなのかも自分の立場も忘れ、子供のようにしゃくりあげた。
「誰もいない。俺には、なにもない。……寂しい……」
涙混じりの声でつぶやくと、頭を抱え寄せられ、優しく胸に押しつけられる。
頬に仕立てのいい滑らかなシャツの感触がした。
伝わってくる体温と、とくんとくんという心臓の音が、少しずつ志乃の心を鎮めてくれるようだった。
志乃は無意識に両手を、客の背に回す。
胸板がとても広いのだな、と感じた。きっと心も、同じように大きいのだろう。
客も志乃の身体を、大切そうに抱きかかえてくれている。
まるで、小さな子供に返ってしまったようだった。
一人の人間として大事にしてもらえることで、空虚に冷え切っていた心が暖められ、満たされていく。
胎児のように心音を聞きながら、ようやく志乃の涙は止まってきた。
呼吸も落ち着いて、頭も冷静になってくる。
そうすると、今度は無償に恥ずかしくなってきた。
「……ご、ごめんなさい……」
謝ったが、そんな必要はないというように、客は志乃を抱く腕に力を入れた。
なんでこんなにも優しくしてくれるのだろう。
照れているだけでなく、なんだかどきどきしてきてしまって、志乃は自分の顔が赤くなるのを感じる。
しばらくして客の身体が自分から離れたときには妙に心細く、まるで室内の温度まで下
がり、寒くなったようだった。
志乃を椅子に座らせたまま、客は帰るのか身支度を始めている。
「あの……泊まっていかなくていいの?」
思わず聞いていた。
この楼を利用するほとんどの客は、ひと寝入りして明け方に帰っていくと里雪から聞いている。
それに、この客はきっと悪人ではない。
志乃の心と身体を気遣ってくれていて、自分を色子などと見下していないのはもうよくわかっている。
───秋成とは違って。
ふいに腹の立つ顔を思い出し、ムッとしかけた志乃だったが、静かに髪を撫でられて表情を緩める。
客はそっと志乃の顎に手をかけてきた。
軽く上を向かされてなんだろうと思っていると、唇に柔らかなものが重ねられた。
くちづけをされているのだ、と認識した瞬間、志乃の心臓が激しく高鳴り始める。
すでに恐ろしさはなく、抵抗する気もない。
「ん……」
しかしわずかに身じろいだだけで、志乃が嫌がっていると思ったのか、すぐに客は唇を離した。
志乃は胸を満たす甘い感覚に陶然としつつ、男相手にどぎまぎしている自分に動揺する。しかも、顔さえ知らない相手だというのに。
離れていこうとする体温を追うように、志乃は思わず手を伸ばす。
かろうじて客の服のどこかを、指先でつかむことができた。
これ以上離れていかないで欲しい。できればもっと、ずっと。
「どうしてやめるんだよ……? 俺は色子なんだから、あなたの好きにしていいんだ」
だが客は志乃の指を、服からそっとはずそうとする。
「手を離したら、帰っちゃうんだろ。そんなの嫌だ」
志乃はもう片方の手も、客がいると思しき方向に差し伸べながら立ち上がった。
両手で客の衣類の端をしっかり握るとあきらめたのか、ようやく客は身体を引こうとするのをやめる。
「……俺のこと、抱きたくないのか? 俺にはやっぱり色気とか……色子としての価値を感じないのか……?」
言ってしまってから、はしたないと思われただろうかと、志乃はどんどん自分の顔と頭に血が上っていくのを感じる。
きっと今、自分は耳まで真っ赤に違いない。
客はまだ、動かないままだ。
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