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第29話

「でも……きっと、悪い人ではないんだろうけど、見世に出れなければ荷風さんになれる可能性も低くなるから、銀花のためにはどうなのかなぁ」  心配そうに里雪は言うが、志乃にはどうもぴんとこない。 「荷風になると、そんなにいいことがあるのか? まぁ、個室がもっと広くなって、揚げ代が高くなるんだろうけど」  こっくりと里雪はうなずいて、大切なことを打ち明けるように言った。 「それもあるけど。山背は、無条件でお客をとらなきゃならない。松韻は指名されたら断れないけど、こちらから指名して、承諾されればその人をお客さんにできる。……荷風さんはね、嫌なお客さんを断れるんだよ。選ばれるんじゃなくて、選べるんだ」 「なるほどな……色子なのに選択権があるのか」  そうなれたらいいなぁ、とつぶやいて雲を見上げる里雪の横顔はまだとてもあどけなく、ささやかな悲しい望みには似つかわしくない。  広い庭園には陽射しが柔らかに降り注いでいた。 それをうけてあちこちの御殿の飾りが光り輝く。舶来の繊細な細工の施された青銅のベンチ。芽吹き始めた花壇の植物。  こんなに美しい空間なのに、その住人の心はこんなにも寂しい。  なんだか切なくなってきて志乃はいつも袖の袂に忍ばせている、お守りの水晶を無意識に手で探る。ところが。 「……ない」  志乃は慌てて袂や帯の隙間を探るが、やはりなかった。 どこかに落としてしまったのかもしれない。 「なに? 失くし物?」 「うん。……ちょっと俺、探してくる」  思い当たることはあった。ここにくる途中、日向を歩いてきて少し暑いと羽織を脱いだから、おそらくそのときだ。 「俺も一緒に探すよ」  里雪が立ち上がったが、そうしてもらうまでもなかった。  羽織を脱いだ場所の煉瓦道に目をやると、陽射しに反射する小さな光が見えたからだ。 「……あれかもしれない」  低い姿勢から勢い込んで駆け出すと、右横からドンと激しい衝撃を感じた。 「うわ!」  思い切り転びそうになるのを、がっしりとした腕に支えられる。  安堵して、礼を言おうと抱きとめてくれた腕の持ち主を見上げた志乃だったが、そのまま顔を引きつらせた。 「……急に走っては危ないですよ」  それは横道から現れた、秋成だったのだ。  そっちがそんなところを歩いているからぶつかったんだ、と悪態をつきかけて、志乃は固まる。  抱き止められた秋成の体から、はっきりとあの香りがしてきたからだ。  薄荷のように爽やかで、かすかに甘い、目隠しをさせる客と同じ匂いが。 「志乃様。助けて貰っておきながら人を幽霊のような目で見るのは、元主とはいえ失礼ではないかと」  低い声に我に返った志乃は、火に触れでもしたかのように秋成から飛びのく。 「……嘘だろ……」  呆然とつぶやくと、秋成は誤解をしたらしかった。 「俺が転びかけた人間を助けるのがそんなにおかしいですか。言っておくがあなただから手を貸したわけではない。咄嗟に危ないと思って手が出ただけの、いわば条件反射のようなものです。むしろあなたとわかっていたら、自然落下にまかせていたものを」 「お……俺だって、お前に助けてもらうぐらいなら、転んだほうがよかった」  言い返すが、いつもの負けん気の強さはない。 「こら、銀花。無礼も大概にしとけよ」  秋成の後ろから、夕凪が顔を出す。またなにか話をして、どこかの部屋へいく途中だったのかもしれない。  秋成は不機嫌な顔をして志乃に背を向け、振り向きもせずに歩いていく。 「……同じだ。……絶対に、同じ匂いだ……」  志乃は愕然としてしばらく水晶の根付を拾うことも忘れ、小さくなっていく後姿を見つめながら立ち竦んでいた。  

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