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第30話

いったいこれは、どういうことなのだろう。  夕方になると色子たちは見世にいってしまい、一人取り残される志乃には、考える時間だけはたっぷりある。  推測どおりあの香りが舶来の男性用香水なら、この世でつけているのが一人きりというわけではないだろう。けれど、そう多くはないはずだ。  回数は少ないが、志乃は父に連れられて社交パーティにいったことがある。  上流階級の夫人たちは香水の愛用者も多く様々な香りを漂わせていたが、男性となると使用者はほとんどいなかったように記憶している。  頭の固い志乃の父のように、身だしなみとして香木を焚き染めるならいざ知らず、男がお洒落の一環として西洋の香りをまとうなどするべきでない、という考えの持ち主もいた。     もちろん舶来の服飾、装飾文化に敏感な子息たちもいたが、紅天楼はどちらかといえば壮年から初老の男性客が主だ。  それに生産国も種類も様々な上に、男性用となると国産で大量生産されどこにでも売っているという代物ではない。 よりによって同じものをつけた客が、この店にもう一人くるなどという偶然があるだろうか。  そうして考えていくと、認めたくないような可能性が出てきてしまう。  秋成と、目隠しをさせる客が同一人物かもしれない、という可能性が。 「そんなの……絶対あるわけない。だって……」  志乃は自室の肘掛け椅子に座り、分厚い緋色の布団を見るともなく見ながら、混乱する頭を整理する。  そうだ、自分は秋成とあの客が同一人物であって欲しくない。なぜなら。  ──目隠しをさせる客に対しては、ほのかな慕わしさを感じている。  優しいくちづけや抱擁に、身も心も溶けてしまうような心地よさを与えてもらっているからだ。 甘やかされ、慈しまれることが嬉しくて、金で買われていることなどすっかり忘れ、こちらも応えたいと思ってしまうほどに。  ──秋成に対しては、やはり腹が立つ。  志乃の置かれた状況に同情して欲しいとは思わない。 だが、志乃を罵ったり陵辱したのは父親同士の確執があるとはいえ、あまりに理不尽だと思う。  ひどいことを言われると、もっとひどいことを言い返したくなる。 一方的に攻撃されるだけでは悔しい。少しでも秋成を傷つけてやりたい。  でも、本当に自分は秋成と、そんな罵り合いがしたいのだろうか。  志乃はなにかを怖れてでもいるかのようにゆっくりと目を開いて、独白した。 「……違う……」  開いた瞳に、涙が浮かぶ。  本当は、罵ったりしたくなかった。 昔のように優しくしたり、されたりしたかった。  だがもう遅い。秋成につけられた傷は深く志乃の心を抉っていた。  可能性は低いが、例えこの先謝られたとしても、秋成が憎くて憎くてたまらない気持ちに変わりはないだろう。  そういう意味では、秋成もまた志乃にとって特別な存在だった。  しかし、もしも目隠しをさせる客が秋成で、あのくちづけや愛撫が秋成の唇や指によるものだとしたら。  自分は勝手に癒されていると思っていたが、秋成は単に、客としてその状況を楽しんでいるだけだなのではないか。 普段は攻撃的な志乃が、おとなしく相手をするのを面白がっているのかもしれない。  そう考えると、胸が氷を押し込んだように重苦しく冷えていく。 「ああ……」  志乃は深く溜め息をついて項垂れた。  無理矢理陵辱された上、見下されバカにしているとしか思えない男を、なぜ自分はこんなに気にしているのか。  ──昔、心を許してしまっていたからだ、きっと。  だから罵倒や嫌味に不快になるだけではなく、深く傷つけられるのだ。 顔を見るだけで冷静でいられなくなり、苛立ってしまう。それになにより、こうして秋成のことばかり考えてしまっている。  志乃は膝の上で両の拳を、ぐっと強く握り締めた。  昔のことを、全部忘れていられたらよかった。 それか、最初からいやな人間と思えていれば、なんということもなかったはずだ。  子供だったとはいえ、簡単に信じすぎてしまっていた。 人を見る目がなかったのだと、志乃は幼いころの自分を恨んだ。  だから目隠しをさせる客と秋成が、別人であって欲しいと志乃は願う。  そうすればせめて誰かが、こんな境遇にまで堕ちた自分を愛しんでくれていると思えるからだ。  それにどんなに秋成に傷つけられても、その傷を癒してくれる者がいれば耐えられる。 目隠しをさせる客は志乃にとって、壊された過去の思い出の代わりに、今や唯一の心の支えになっていた。

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