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第34話
「……目隠しを取らせて欲しい」
返事がないので、思い切って両手を結び目にかける。だが途端に、ぐい、と手首をつかまれた。
「どうして駄目なんだ? 俺は別に、見た目なんてどうでもいいのに」
切羽詰った思いで聞いているというのに、やはり返事はない。
やんわりとではあるが、客は志乃を押しやって身体を離した。
衣桁に引っ掛けてあったのか、上のほうから衣類が擦れる音がする。
急いで着替えをしているようだ。
志乃がこんなことを言い出したからだろうか。
「怒ったなら、謝る。……ただ俺は知りたいだけなんだ。こんなに優しくしてくれるのがどんな人なのかを」
段々と志乃は不安になってくる。
本当に機嫌を損ねてしまったのではないだろうか。
いつまで待っても返事はなかった。やがて襖を開く音がし、志乃は慌てて立ち上がる。このままでは怒らせたまま帰ってしまう。
「待って…!」
目隠しのまま立ち上がり、ふらつく足取りで襖のほうに向かうが、なにかにつまづいた。
「っあ!」
突き出した右手に、がつっと硬いものに当たる。
衣桁だ、とわかると同時に一緒に倒れかかったのだが、その身体はかろうじて支えられ、転倒を免れた。
様子に気づいてすぐに客は室内に引き返してくれたらしい。
志乃を抱えるようにして布団に座らせると、怪我はないかというようにあちこちに触れてくる。
「いっ……」
右手の指に触れられて、志乃は痛みに顔をしかめた。
すると襖が開いたままで廊下から見える状態だったらしく、若い衆の声がする。
「あっ……お待ちください、すぐ、手当てを」
言うや否や、すぐにばたばたと駆け出していく音が聞こえてきた。
志乃は眉を潜める。指に痛みはあるが突き指のような感じで、きっと大したことはない。
とすれば、手当てが必要と思われたのは客ではないのか。
「どこか、怪我したの? 俺なんか大丈夫だから……」
客は志乃を労るように肩を抱き、緋襦袢らしきものを素肌にかけてくれたが、こんな状態でもやはり目隠しははずしてもらえない。
間もなく幾人かの足音が廊下から聞こえ、室内に入ってきた。
「お怪我をされたとのことで、事情はともかく、まずは当楼専任の医師に治療させていただきやす」
夕凪の声だ。そしてもう一つは初めて聞く、しわがれた声がする。
志乃は息を詰めて、成りゆきをうかがっていた。
「ふむ、少々出血されておりますが、ごく浅い傷です。しかし悪いものが入りますと厄介なことになりますので、消毒をば」
きっと、衣桁の端かどこかで切ったのかもしれない。
それでもまだ客は志乃の肩を抱いてくれているままだ。
アルコールの匂いが、つんと鼻をついてくる。顔のとてもすぐ近くなので、肩から上の怪我のようだ。
「どこを怪我したんですか。すぐ治るんですか」
「お首だが縫うほどでなし、さほど心配せずと……」
心配でたまらなくなった志乃の質問に答える医師の言葉が、ふいに途切れた。
客が話すなと、身振りで止めたのかもしれない。
次に志乃の指が診察されたがやはり突き指で、膏薬と包帯が巻かれた。
「あの。お客さんは悪くなくて……俺のせいなんだ。見えないから衣桁を倒してしまって、お客さんはそれを助けてくれて」
客を責めないでくれ、と思ったのだが、夕凪はずけずけと言う。
「申し訳ありやせんが、目隠しなんぞさせりゃあ、こういうことが起きるのも道理ってもんで。治療費は揚げ代につけさしていただきやす」
返事は聞こえてこないが、きっとうなずいて了承したのだろう。ますます客が怒って、もうこなくなってしまったらどうしてくれるのか。
夕凪の守銭奴ぶりにむかむかとしてくるが、元を正せば自分のせいだ。
目隠しをしたまま後を追えばどうなるかなど、子供でもわかる。
治療が終わり、襖が閉まる音がして、しばらくすると全員が退出したのか部屋の中がしんと静まり返る。
後悔と焦燥感に震える指で志乃が目隠しの紐を解いたとき、もうそこには誰の姿もない。
ただかすかに、衣類の残り香らしきいつもの香りが漂っているだけだ。
──そしてその夜以来、ぱったりと、目隠しをさせる客は訪れてこなくなってしまったのだった。
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