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第35話

客が訪れなくなって一ヶ月が過ぎたころ、志乃は、やはり目隠しをさせる客と秋成が同一人物なのではないか、という絶望的な思いを深めていた。  なぜなら目隠しをさせる客がこなくなると同時に、秋成の姿を紅天楼で見かけることもなくなっているからだ。  これが事実であれば、なぜ秋成がそんなことをしていたのか理解しがたい。 やはり嫌がらせの一環として別人を装って志乃を弄んでいた、という可能性が一番高いだろうか。  自分ではよくわからないが里雪や他の色子たちは、銀花ならばすぐに売れっ子になれるし、あるいは荷風にもなれるとまで言ってくれていた。 世辞もあるにしろ少しはそれが本当ならば、見世に出させないようにしているのも、志乃の出世を邪魔したいがためとも考えられる。  だとしたら同じ相手から、二度も裏切られたということだ。  しかし、同一人物だとしてもそうではないにしても、ここにこないのであればどちらでも変わりない。  志乃はこの楼から外の世界に出れないのだし、向こうがこなければ二度と会うこともないのだから。 どんなに好きでも恨んでも、客と色子はそれまでの関係だ。  それに以前のように秋成が荷風と一緒にいるところに出くわしたり、皮肉を言われて傷つけられることもないと考えると、会わないほうが苦しさはあっても少し楽だった。  常に刃物で切りつけられているよりは、古傷の痛みを我慢するほうがまし、といった感じだろうか。  突き指した右手薬指も、まだなにかの拍子に痛むことがあるものの、ほぼ治って膏薬も包帯もとれている。  きっとこのまま秋成のことも目隠しの客のことも、忘れていければ一番いいのだと思う。  けれど、自分の気持ちに素直に耳を傾けてみると悔しいことにまだ、会いたいという声が聞こえてくる。ただそれは目隠しをさせる客にであって、秋成に対する気持ちではないと思いたい。  暖かな抱擁や優しい愛撫、あれがすべて偽りのものだったとしても、心地よさを感じたのは確かだった。  我ながらなんと往生際が悪く、うじうじしているのかと嫌になるが、こんな異様な状況でははっきりとした結論が出しにくいのも仕方ないだろう。  目隠しをさせる客が本当に秋成だとすれば、正体がばれると志乃が反抗し、暴れて困るとでも思ったのだろうか。  なにも問わずにだまされたふりをしていれば、思惑はどうであろうと抱き締めてくれる腕を失わずにすんだのに、と後悔する気持ちもあったが、もうどうしようもなかった。 「銀花は初めての参加になるよね、四季の会。それはもう、すっごく華やかで、すっごく賑やかなんだよ!」  いつものサンルームでの午後。  志乃がこのところ沈んだ顔をしているのを気遣ってか、気持ちを少しでも明るくしようとするかのように、普段より大きな身振り手振りをつけて里雪は話し始めた。  以前から雑談の話題の一つとして聞いたことがあったが、紅天楼では「四季の会」という宴が、季節ごとに催されるらしい。  常連客への日ごろの感謝をこめたもてなしの宴というが、実はその当日と前日は、揚げ代が倍近くになる仕組みなので宴会費用はそれでちゃらになり、楼は損をしないようになっている。 色子たちはその美しさを競うように見せかけて、本当は客に貢いでもらうことが一番の目的だった。  もちろん遊び慣れた客たちは色子の目的などわかっているのだが、そこは駆け引きの楽しさと割り切っているのだろう。  常に会は、その季節の真っ盛りになる、少し前に行われる。  春ならば桃の節句や桜の咲く前、夏ならば梅雨明けの前、秋ならば残暑が厳しく、冬は雪の降る前だ。  季節の盛りを先取りすることで、客をわくわくとした気持ちにさせるらしい。  そのための用意は、二週間ほど前から始められている。  若い衆たちによって、主会場になる北御殿の瑞雲の間の玄関前には、南の地方から取り寄せられ、八部咲きになっている桜の樹木が運び込まれていた。  ここ数日はとても暖かな日が続いているので、明日の会が始まる夕刻ごろには、きっと満開になっているだろう。 「客は各界から大勢くるのか?」  志乃としては、もしや債権者や以前の父の知り合いもいるかもしれない、と心配になって聞いてみたのだが、里雪にはそこまで想像がつかないようだ。  楽しそうに笑みを浮かべてうなずいた。 「うん、この会に招かれるのは遊びの通であるお大臣たちにとっては、名誉なことみたいだから。そこまでお金がなくてここで遊べない人でも、その日だけは紹介でこっち側に入れる人もいるし」 「でもこんなところで仕事関係の知人に会ったら、気まずいと思うけどな」 「もちろん、色子を買う趣味を他に知られたくないお客さんもいるよ。そういう人は個室をとって、そこで俺たちが挨拶に行くのを待つんだ」  里雪はそこまで言って、ティーカップの華奢な取っ手をつまみ紅茶を一口飲む。 「挨拶にいくって、俺たちが?」 「そうだよ。お()り、って言ってね。色子衆全員で、各宴会場や個室を練り歩いてお客さんたちに、いつもありがとうございます、って挨拶するの。できるだけ着飾って、それはもうみんな綺麗で……」 「……うん?」  途中で里雪が、人の顔をじっと見て言葉を止めたので、志乃はなにごとかと身構える。 「銀花は、なにを着るの?」 「なにって、これでいいよ」  会のときの衣装のことだと気がついて、志乃は愁眉を開いた。

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