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第38話
中でも一際艶やかな蝶は、やはり荷風の青嵐だった。
窓際の椅子に腰掛けた青嵐に、幾人もの客が飲み物や料理を運び、中には画家ででもあるのかその姿をさらさらと紙に描いている者もいる。
大したものだと人の輪を覗きこんだ志乃は、あっと大きな声を上げそうになり、慌てて口元を押さえる。
いつの間にきたものか、青嵐の隣に秋成が座っていたのだ。
青嵐はにこやかに秋成に話しかけ、秋成も笑って応じている。
自分の頭の中ではち切れそうに膨れ上がっていくのが怒りなのか悲しみなのか、志乃にはよくわからなかった。
ただ、吸い寄せられるように二人の様子から目が放せない。
「銀花? どうしたの?」
里雪に声をかけられて、別に悪いことをしているわけでもないのに、志乃はぎくりとしてしまった。
「ああ、国領様がきたんだね。……やっぱり気になる?」
「違う違う! あんなのが客だったら、青嵐さんは可哀想だなって」
「しっ! 銀花は本当に口が悪いんだから。そんなこと聞こえたら大変だよ」
先日の秋成と志乃の言い合いを思い出したのか、里雪は志乃の手を引き、その場を離れようとする。
その直前、秋成がこちらを見たように感じて慌てて顔を背けた志乃は、里雪に誘導されるままに反対側の方向へと向かった。
ところが途中で突然里雪が立ち止まり、志乃はあやうく背中にぶつかりそうになる。
「里雪?」
どうしたのだろうと思って顔を見ると、里雪は出入り口付近を見つめている。
そちらにいた紳士の一人が、こちらを見て手招きしていた。
里雪はにっこり笑い、右手を小さく振って応える。
常に笑顔でいることか多い里雪だが、なんとなくいつにも増して表情が明るくなったように志乃は感じた。
もしかしたら大事な馴染み客なのかもしれない。
「……なぁ、俺やっぱり帯が苦しくて。あっちで少し休んでるよ」
「あ……うん。でも、一人で大丈夫?」
「平気だって。黙って、じっとしてるから」
笑いながら言うと、里雪は気がかりそうに何度もこちらを振り返りつつ、出入り口付近に向かって歩いていった。
唯一頼りになる里雪がいなくなると、本当は少しばかり心細い。
ホールに設置されている、彫刻の施された大きなスリゲル時計を見ると、お練りとやらに出立するにはまだしばらくの時間がある。
志乃はなるべく目立たず、じっと身を潜めていられる場所はないかときょろきょろと周囲を見渡した。
瑞雲の間は、正面入り口から入って広間から左側の廊下をいくと山背たちの大部屋があり、右側の廊下を行くと洋間の宴会用個室が幾部屋かあると聞いている。
志乃は人のいない薄暗い左側の廊下に出て、その壁に寄りかかって溜め息をついた。
特にホールとの境目に扉があるわけではないのだが、一歩賑やかな空間の中心からはずれるだけで、かなり静かに感じられる。
まだ秋成はあの椅子に座り、青嵐と話しているのだろうか。
どちらも男のはずなのだがとても自然に寄り添って、似合いの二人に見えた。
「疲れた……」
俯いて溜め息と一緒につぶやきを吐き出すと、驚いたことに返事が返ってきた。
「そうだろうな。仕掛けというのは重いのだろう」
恐る恐るそちらを見ると両手にワイングラスを持った、山吹色の大島紬に身を固めた口ひげの男が立っていた。
さっき里雪と一緒にいたとき、しつこくいろいろ聞いてきた男の一人だ。
左手に持っているグラスを差し出され、志乃は咄嗟に受け取る。
「……ありがとうございます」
一応は礼を言ったが、内心では早くどこかへいって欲しいと願っていた。
けれど男は、志乃の隣に並んで壁に寄りかかる。
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