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第39話

「先刻、初見世はまだと言っていたな」 「はい……」 「日取りが決まっているなら教えてくれないか」 「いや、あの、それもまだなので」  適当に言葉を濁し、志乃はどうこの場から逃げ出そうかと考える。 「まだそれさえ決まっていないのか。君ならばすぐにでも上客がつくだろうに……よし、私が水揚げの予約をしよう。源氏名は銀花だったな。可愛らしい名前だ」  目を細くして肩に手を回され、志乃は身体を硬くした。 気安く触るなとグラスの中身をひっかけたいところなのだが、里雪に迷惑がかかってはいけない、とぐっと自制する。  そんな志乃を、口ひげの男は恥ずかしがっていると思ったらしかった。 「随分と緊張しているな。怖がらなくていい。そら、葡萄酒を飲んでごらん」  志乃は酒を飲んだことがない。 正月のおとその杯に縁起物だからと、形ばかり口をつけたことがあるだけだ。  しかしそらそらと強引に勧められ、わずかながら口に含んで飲みくだす。  嚥下するにしたがって、喉から胃がぼうと熱くなっていくのを感じた。  口ひげの男は、そんな志乃の口元をじっと見つめたまま、ぐいと肩を抱き寄せて顔を近づけてきた。 「なにするんだ!」  驚いて引き寄せられまいと抗うが、男は意地になったように腕に力を入れてくる。 「怖がるなと言っているだろう」  志乃は拒みつつも、本気で突き放すことができずにうろたえていた。 問題になってしまったら里雪に迷惑がかかってしまうから、騒ぎはおこせない。   逃げこむ場所もない。助けてくれる人も。 「じゃじゃ馬のようだが、これから私がしっかり躾てあげよう。早いほうがいいな、今夜にでも水揚げして……」  言いながら、さらにぐっと顔が近づけられて志乃がきつく目を閉じたとき、背後から聞き覚えのある低い声がかけられた。 「無理強いにくちづけなど、野暮なことこの上ないな」  志乃は恐る恐る目を開ける。 ふわっと懐かしい、よい香りに胸がざわつく。 「なにを、失敬な……!」  口ひげの男は目を剥いて振り返ったが、その相手が秋成だとわかった瞬間、ぐっと口をへの字に曲げ怒鳴り声を飲み込んだ。 「……これはこれは……国領様。私どもごとき下々に関わらずとも、お美しい荷風殿が待たれておいででしょう」  遠回しに関係ないからあっちへいけと言う口ひげの男を、秋成は鋭い目で睨む。 しかし口元には、余裕の笑みが浮かんでいた。  その姿を見るうちに、どういうわけか大きく志乃の心臓が高鳴ってくる。 「まさか野暮と見咎められてまで、この色子をくどき続けるつもりではないだろうな。そこまで無粋とあっては、人徳人望も知れたものだ。松川紡績の役員とお見受けするが、上に一言忠告しておく必要がありそうだ」  秋成の言葉に、男は血相を変えた。 志乃の手を振り払うと、頭から湯気が出そうな顔色をして広間の中央にずんずんと歩いていく。  呆然と見つめている志乃に、秋成は嫌な顔をする。 「隙があるからあんなしょうもない男に絡まれるんです。どうせなら、もっと上等の客をつかまえたらいかがですか」  苦々しくつぶやいて、秋成が主会場のほうへ顔を向けた瞬間。 「……っ!」  志乃は息を飲み、口元に手をやった。 秋成の耳の後ろから、細く赤味を帯びた肉の盛り上がった傷跡が、シャツの襟元にかけてのぞいたからだ。  そのままもう振り向くこともせず、秋成は賑やかな場へと戻っていった。  なんと声をかけていいか迷ううちに、その背は広間の光と人混みの中に消えてしまう。 「あの傷……」  正面からはわからなかったが、首だ。医師が言っていた場所と一致する。  それに今日、これだけ大勢の客がいながら、やはりあの香りをまとっているのは秋成ただ一人しかいない。 目隠しをさせて自分を抱いていた客は、もうどう考えても秋成に違いなかった。 志乃はとてもじっとしておれず、といって光に満ちた会場に戻る気にもなれない。 飲みもしない葡萄酒のグラスを持ったまま、意味もなく廊下を奥に進んで突き当たると、また引き返すことを繰り返す。 もしかしたら、という仮定の想像ではなく、あの優しい愛撫もくちづけも本当に秋成のものだと改めて思い起こすと、その生々しさに目眩がしそうになってくる。  男である自分が色子として売られ、、客の立場になった秋成に抱かれ、唯一目隠しをされた客に優しく癒されていたのが救いだったというのに、その男もまた秋成だったとは。  その事実に志乃は頭の中が真っ白になるのを感じた。

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