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第42話
しばらくすると、煙草の匂いと共に襖が開く。
客がくるとき、志乃に目隠しをつけるのは常に夕凪の仕事だった。
面倒がる夕凪に、若い衆にやらせればいいと言ったこともあるのだが、客から直接、夕凪がやるようにと命じられているらしい。
目隠しをさせてから若い衆がなにをするかわからない、という理由のようだったが、うちにはそんな躾の悪い使用人はいねぇ、と夕凪はぶつぶつ言っていた。
ところがこの晩、夕凪が部屋にきたのは目隠しをつけるためではなかった。
志乃の正面に立ち、腕組みをして思いもかけないことを言う。
「実は今日の客は、いつもの目隠しの客じゃねぇ。松紡の重役から予約が入ってる」
「……別の、客……?」
意外な言葉に、志乃は動揺する。
秋成以外の男。
本当の意味での見ず知らずの客に、初めて買われて抱かれるのか。
さあっと頭から血の気の引いていく音がした。
しかしこれは本来、意外でもなんでもない当然のことのはずだった。
むしろ今までが、特殊な状況だったというだけだ。
ずっと個人的な複雑な思いに囚われていた志乃は、忘れかけていたのかもしれない。
ここが借金のため貧しさのため、金と引き換えに好きでもない多くの同性たちと肌を合
わせる廓であり、仕事場だということを。
客だって、そうした色子と割り切って遊ぶためだけに、途方もない料金を支払って紅天楼に足を運ぶのだ。
それでも志乃は、怖気を奮わずにはいられなかった。
初めて目隠しをさせられ客をとらされたときよりも、もっとずっと嫌悪感が強いのは、あまりに深く秋成との関係ばかり考えてしまっていたせいかもしれない。
だが松紡という社名には、どこかで聞き覚えがあった。
「松紡って、松川紡績のことか……?」
「ああ、よく知ってるじゃねぇか。一流とは言えねぇが、そこそこ堅実に伸びてきてる会社だ。大したお大尽じゃねぇが、客は客だからな。粗相すんなよ」
四季の会で志乃に絡んできた男かもしれない。本当に指名をしてきたのだ。
どうしようもないのは思い知っているというのに、どうしよう、どうしよう、と志乃は絹布団に座ったまま度を失う。
けれど家の借金に対する責任、そして父親の治療費から逃げるわけにはいかない。
覚悟を決めるしかなく、悄然とする志乃を見下ろして、夕凪は小さく舌打ちをする。
「しばらく辛抱しな。小遣い稼ぎにゃなるが、どっちも不器用すぎていい加減苛ついてきちまったんだよ。荒療治でもしねぇと、どうにもならねぇだろ」
「え……?」
頭がごちゃごちゃしているときに謎かけのようなことを言われても、まったく意味がわからなかった。
夕凪は一度廊下に出たが、すぐに客らしき男を連れて戻ってくる。
「失礼する」
入ってきたのは、もしやと思っていたとおり、会の折に着物に葡萄酒を零した口ひげの客だった。
志乃を見て、妙に馴れ馴れしく笑いかけてくる。
「それじゃあ、旦那。銀花はまだ不慣れなもんで、よろしくお頼み申します」
夕凪はそう言うと障子を閉め、部屋は客と志乃の、二人きりになった。
「この前はいらん邪魔が入ったが、今日はゆっくり可愛がってやれるぞ」
脱いだ羽織を差し出しながら客は言う。
志乃はなぜ客が羽織を差し出しているのかわからなかったが、そういうことも色子の仕事なのだった、と気づいて慌てて受け取り、衣桁にかける。
「……細い腰だな」
背後から緋襦袢越しに尻を撫でられ、志乃はぞっと鳥肌を立てた。
そんなこととは気づきもしないのか、さらに客は後ろから抱き着いてくる。
まだ長着は脱いでいないが、それでも客が押しつけてきた下腹部の熱さと形がはっきりと伝わってきた。
「あ……あの。俺はまだ、半人前の色子で、どうしていいのか」
許されるなら巻きつけられた腕を振りほどき、殴ってしまいたい。
「心配するな。だから私が、慣らしてやろうと言うのだ」
本当に志乃は、正直なところどうしていいのかよくわかっていなかった。
見世に出ることになったら床での作法も里雪に教えてもらうことになっていたが、それすら今は知らずにいる。
まともに客と顔を合わせて床を共にしたのは、秋成と初めて寝たときだけだ。
けれどあのとき志乃は抗い続けて強姦されたに等しかったし、目隠しをさせられていた場合もやはり勝手が違う。
だが、ひげの男はそんな志乃の様子を、初々しいと受け取っているらしい。
「いい子だ、ほら、ここに寝てじっとしていなさい。私が脱がせてあげるから」
男は馴れ馴れしく手を引いて志乃を布団に横たわらせると、嬉しそうに緋襦袢を脱がせていった。
目尻を下げ、好色な笑みを満面に浮かべている。
志乃は段々と恐ろしくなってきた。
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