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第9話 黒い水
相談役、という役目を得たことで、ルーウェは多少安心してアーセールの邸《やしき》で過ごすようになった、ように思える。
「ルーウェ、外へいこう」
ここへ来た当初、ルーウェは馬に乗ることも出来なかったが、少し、体力を付ける必要があるのではないか、と考えたアーセールが乗馬と、少々の剣術を教えた。
「私は相談役で、あなたは、私の武術と乗馬の先生ということですね」
「というより、俺が、全く身体を動かしてないと死にそうだから、付き合って貰いたいだけだよ」
剣術は、まるで駄目だったので、短刀での稽古になったが、それでも、しんどそうだった。けれど、数日で馬には慣れたようだった。多少の心得もあったようだった。馬はとても賢く、ルーウェによく懐いたのだ。しかし、アーセールが飼っている中でも一番気性の荒い黒駒がルーウェに懐いたのだけは、意外だった。
それで、天気が良い日は馬を駆るようになった。
「アーセール様、ルーウェ様……本日は、宴席の打ち合わせがございますので、夕刻まではお戻りくださいませ」
ルサルカが苦虫を噛みつぶしたような顔をして言うのも、日課になった。
厩舎へ向かいながら、アーセールは小さく文句を言う。
「無職の俺が、賑やかな宴席を持つのもなあ」
「招待客の絞り込んだのですから、規模は少し縮小されましたよ?」
「まあ……」
アーセールは立場上、『皇太子派』ということになった。皇太子の唯一の『実弟』であるルーウェを伴侶に迎えたからだ。つまり、皇太子派の宴席として、問題のない形をとる必要がある。
「皇帝陛下は招待を出したけれど、どうせおいでにならない。皇太子殿下は、気さくな性質の方だから案ずるほどではないと思う」
「まあ、一晩くらいは、我慢しなければならないだろうな……第八王子殿下をお迎えしたんだしな」
無職の元将軍に『降嫁』したルーウェは、『殿下』の称号を有したままだった。これが、一体、今後、どういうことになるのか、全く解らない。どちらにせよ、アーセールには皇帝陛下という人が、状況を弄ぶために残した悪意のように思えてならなかった。
「その、第八王子というのは、止めて欲しいと……」
「ああ、それは解っている。ただな、ちょっと、気に掛かるんだ」
結婚の披露の宴席の打ち合わせというのは、微細に行われた。
「こちらが来賓のリストです……お喜びくださいませ。皇帝陛下御自ら、光来《こうらい》されるとのことですよ。臣下の邸への行幸など、陛下の御代に於いては、ただ二回、前皇后陛下のご実家と、老宰相の御薨去直前の見舞いのみのことでしたから」
ルサルカの顔色は悪い。口早になっているのも、頷ける。
「陛下が、おいでになると?」
「ええ、そのように聞いております」
皇宮からの返答には、皇帝と皇后、それに数名と、警護の者を伴って訪うという旨が記載されている上、宸筆《しんぴつ》でのサインがあった。
それを見て、ルーウェの顔色が一気に悪くなる。
「ルーウェ、大丈夫か?」
「……なぜ、皇帝陛下が? 私に、何の関心も無かったはず……」
関心がない、というのは、正しい言葉だろう。関心があれば、ルーウェは不遇の半生を送っていないはずだった。
「ルサルカ。数名一緒に来るという者たちは、誰だか解るか?」
「えーと、お待ちくださいませ。ああ、宰相閣下のご子息と、第二王子殿下、第三王子殿下……」
そうルサルカが告げた瞬間、ルーウェの身体が傾いだ。顔色は、青い。酷く、青かった。目の焦点が定まらない。唇が震えていた。
「ルーウェ? ルーウェ?」
身体をかるく揺すっても、返事はなかった。
「どう、なさったのですか?」
ルサルカが、驚いて、すこし、ひけごしになっている。こういう異常な状態は、今までなかった。
「……ルサルカ。あとは任せた」
「えっ? ちょ、ちょっと、お待ちください、アーセール様っ!」
「少し待ってくれ。……ルーウェが心配だ。落ち着くまで、一度下がる。どうしても、俺でなければならないところだけ、あとで聞く。それ以外はお前が決めていい」
「……はあ、畏まりましたが……」
ルサルカが、ルーウェを見やって、溜息を吐いた。
アーセールは、ルーウェの身体を抱き上げて、寝室へと運ぶ。初夜以後、一緒にあの閨で休んでいた。どうするか悩んだが、やはり、あの閨に行くことにした。抱き上げた身体は酷く震えていて、尋常でない。
つい先ほどまで、馬で風切って森を駆けて居たのだ。その、闊達な姿が一瞬で消え失せた。
(宰相閣下のご子息と、第二王子殿下、第三王子殿下)
その名を聞いた瞬間だった。そして、そのものたちは、招待客のリストから、わざわざ外されているものたちだった。
(まさか)
ぞっとした。嫌な予感が、胸に広がっていく。まっさらな水に、黒いインクを数滴垂らしたように、ゆっくりと、嫌な予感が広がる。足早に閨に向かいながら、頭を振る。しかし、インクは、胸に広がって、とうとう、真っ黒に水を染め上げるだけで、なくなりはしない。
(まさか)
とアーセールは、思った。
(まさか、その、人たちが……あなたを、弄んでいたのか……?)
疑惑は、確信に変わっていきそうだった。だが、それを、問うことが、アーセールには、出来なさそうだった。
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