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第14話 魔王様、生まれ変わる
あったかくてふわふわしたものが体を包 んでいる。まだ少し微睡んでいたいけど、眩しい光が顔を照らす。そして、鼻をくすぐる暖かくて優しい匂い。
ハンナのパンの匂いだ。
ハンナのパンは丸っこくてふわふわで、薄いキツネ色をしている。両手でふたつに割くと、指がパンに沈んで潰れるから、優しくちぎるのだ。そうすると、絹みたいにパンの生地が光って伸びて、口に入れると甘さと塩加減が絶妙に舌に絡んで……。
ガラガラガッシャーン!
「うわァァァァ、姉さん、助けてぇ!」
夢見心地のルナトゥスの目がぱちりと開く。盛大な雑音に、ジェイミーの情けない叫び声。
「……! ここは……?」
カラザ地区ココット村、ジェイミーの部屋だ。
「……? なぜ ? :我(わりぇ)は昨日……」
農園で一悶着あってから夢中で駆け出し、魔の森へと向かったはずだった。走っても走ってもなかなか着かなくて、途中で転びながら泣きながら、とにかく走り続けた。
どこまで行ったのか、夕陽が赤く差してくる頃、疲れきって一度座り込んだ……そこから記憶がない。
(もしや、その場で眠ってしまったのをジェイミーに見つかり、連れ帰られたか? くっ……またもやなんたる失態、それに……)
毛布をバサリとめくってみれば、シーツが濡れている。今日もおねしょをしてしまった。
「ぐぅぅ……うん? だがこれは……」
濡れた下に少しだけガサガサした違和感があって、ベッドから降りて見てみると、シーツの下にビニールが敷いてあった。だから濡らしたのは、シーツとルナトゥスが来ているネグリジェタイプの寝間着だけだった。
ガシャン! バリン!
「わぁぁぁ!」
「ジェイミー……!」
「! さ っきからなんだ? それに 、黒煙の匂い。まさか 、新たな魔王の襲来……!?」
濡れたままのパジャマを着てドアを開け、居間に走った。
居間には黒もやと焦げくさい匂いが充満している。
(どこだ。敵はどこにいる!)
だが、見えるのは割れた皿を片付けるジェイミーとハンナ。二人は勢いづいて走ってきたルナトゥスをまんまるした目で見上げている。
(敵の襲来……ではないのか……?)
「血相変えてどうしたルナトゥス。悪い夢でも見たのか? ……ああ、寝間着が濡れて目が覚めたのか」
ジェイミーが皿の破片から手を離し、自分の手に欠片がついていないことを確認してからルナトゥスに手を伸ばす。
「……!」
ルナトゥスは体を固くしてぎゅ、と目を閉じた。叱られると思ったのだ。昨日農園で腕を掴まれ、揺すられたのと同じように。
だが、違った。
突然に、体がふわりと持ち上がる。
「体と服を綺麗にしなきゃね。姉さん、ごめん。皿の片付けと朝食の準備はあとでやるよ。俺、先に……」
「いいわよ。ここは任せて」
ジェイミーが言い切る前に、ハンナが優しく笑みながら答えた。それで、ジェイミーも微笑んで頷いて、抱き上げたルナトゥスを連れて、洗面所へ向かう。
湯浴みの最中も、着替えの時も、ジェイミーはとても穏やかだ。そして、ルナトゥスにたくさん話しかけている。
ルナトゥスは予想と違うジェイミーの様子に、ただ面食らうだけで、頷いたり首を振るしかできない。
「良く眠れた?」
「どこか痛いところは?」
「お湯、熱くない? ……じゃあ、ぬるくない?」
言葉のどれも、ルナトゥスの気持ちを聞いてくれる。昨日、ルナトゥスを「悪」だと決めつけた時とは大違い。
(なぜ?)
理解が追いつかず、ジェイミーを見て、くりくりお目々をぱちぱち瞬きしてしまう。
「よし、さっぱりしたか? 服、着よう」
下着を出されて、はっと我にかえって右足から入れた。が、立ったままだったのでバランスをくずしてよろけた。
(くそ、こける……!)
幼児の体はどうしてこうもやりにくいのか。苛つく。叫んで発散したい。
でもそうしてジェイミーに怒鳴られると思うと、どうしてか悲しくて奥歯を噛み締めて我慢した。
どうせ尻もちをついたら泣いてしまうとわかっているのに。
だが尻もちはつかなかった。
「おっとっと」
ジェイミーが抱きかかえて支えてくれたのだ。
……ぽか、ほわ……。
「セーフ! そうか、子どもは頭が大きいからよろけやすいんだな。履くものは座ってやった方がよさそうだな。ルナトゥス、おいで」
ジェイミーも座ると、ルナトゥスを抱き上げて股の間に背中向きに座らせた。
……ぽかぽか、ほわほわ……。
ルナトゥスの背中があったかくなり、胸のあたりもじんわりしてくる。
「ルナトゥス、俺がパンツを広げてるから、足は自分で入れて、両方入ったら、ここ持って」
昨夜はジェイミーがほぼ着替えを手伝っだが、今日はルナトゥスが自分でするよう促す。でも突き放すのではなく、タイミングを合わせて声をかけたり、次に着る服を渡したりする。
なによりも、ルナトゥスが後ろに転げないように、背を守っている。
そうされると、ルナトゥスの胸はもっとぽかぽかほわほわしてきた。
「よーし、できたな。いい子!」
いい子だなんて、子供に言うようなことを言うな。
そう言おうとしたが、ジェイミーが頭を撫でてくるので言えなくなる。
ジェイミーはルナトゥスの脇を抱えながら一緒に立ち上がると、片手に洗濯したシーツを持ち、もう一方の片手でルナトゥスと手を繋いだ。
「ほら、一緒に干そ」
とんがり屋根の家の裏口から外に出ると、小さな庭があって、木と木に縄を繋いで物干しとして利用している。
ジェイミーはシーツを大きく払い、縄にかけると、ルナトゥスにもすそを引っ張らせて皺を一緒に伸ばした。
白い布が、二人が引っ張るたびにピン、と張って、真っ白なキャンバスみたいになる。
すっかり平らになったキャンバスの前に二人で立てば、東の空から登った太陽がふたつの影を映した。
眩しい。どこもかしこも眩しい世界。これまでルナトゥスは陽射しが大嫌いで、闇を好んでいた。なのに、陽に当たるととても清々しい気分になった。
(朝は、太陽は、こんなにも心地いいものだったか? 今までとなにが違う?)
ちら、とジェイミーを見る。けれど今はジェイミーの太ももの高さくらいしか背がないから、見上げても太陽の光で遮られて表情がちゃんと見えなかった。
するとジェイミーは、視線に気づいて腰をかがめ、ルナトゥスに目線を合わせた。
「ルナトゥス。昨日はごめんな。俺はもう間違えない。ルナトゥスを一番に信じるよ。そして……必ず守る」
エメラルドグリーンの瞳が、太陽の光に反射してキラキラしている。そこに嘘はひとつもないように思えた。
「俺は変わる。これからルナトゥスに信頼してもらえる人間になるから……だからルナトゥスも、やり直そう。今日からは一人の新たなルナトゥスとして、生まれ変わるんだ。一緒に幸せになろう」
ジェイミーはルナトゥスの片手を取り、顔を近づけてから
(あれ? これは違う?)
と思いつつも、小さな手の甲にちゅ、と優しく口づけした。
ルナトゥスも、それは心に決めた女にやることだろうと突っ込みたかったけれど──ぽかぽかほわほわが最高潮。それにチカチカキラキラまでしてくる。
頭と目と胸の中が、そんな音でいっぱい。息苦しくて、きゅうぅ、と喉が鳴りそう。
ぽかぽかほわほわ。ちかちかキラキラ。
一緒に、自分でも在ると気づいていなかった頭の中の黒い|靄《もや》がすうっと晴れていく。
だから。
「……うん……」
ただ、頷くことにした。
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