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第二章 第一話 悪夢

清蓮は獣の咆哮を遠目に聞き、立ち止まって振り返る。 白い光が一瞬辺りを照らしたが、すぐさまその光は消え、静寂が戻る。 清蓮は追手が来るかもしれないと、また走り出した。 清蓮は、無我夢中で走った。 いつまで走ればいいのか、どこまで走ればいいのか、どこに向かって走ればいいのか、まったくわからなかった。 それでも、彼には走る以外の選択肢はなかった。 武芸に優れ、体力も人並み以上の清蓮であったが、夜の森を走り続けるのにも限界があった。 疲労が極限に近づいてくると、それに伴って、どんどん足が重くなる。 それはまるで足枷となって、清蓮の運命に重くのしかかってくるようだ。 いよいよもって、足が進まなくなったところで、清蓮は木の根っこに引っかかり、倒れ込むようにして転んでしまった。 清蓮は突っ伏したまま身動きもせず、荒れる息づかいだけが、静かな森に響いた。 呼吸が少し楽なると、清蓮は顔を上げ前を見据えた。 すると木の葉にぽたり、ぽたりと雫が落ち始めた。 清蓮は雨が降ってきたのかと思い、夜空を見上げる。 凛とした空気の中で、満月が漫然と輝いているのを見た時、雨だと思った雫は、自分の頬をつたって落ちる涙だということに気づいた。 清蓮は不思議に思った。 走り回わって、全身汗をかいて、口の中はからからだ。 それなのに、涙はとめどなく流れ落ちていく。 「父上…。母上。…。なんでこんなことに…。」 なんで…。 なんで…。 清蓮は涙に濡れた木の葉を握りしめ、満月に向かって叫んだ。 地面に拳を叩きつけては、悲痛な叫びをあげ、剣を振り払っては、木の枝や葉を地に返す。 清蓮は異常なまでに興奮し、気が触れたかのように荒れ狂っていたが、ついに極限に達した肉体は、清蓮のいうことを聞かず、動くことを拒否した。 清蓮はぱたりと地面に倒れるしかなかった。 満月はいつのまにか雲に隠れ、暗闇が夜空を支配していた。 体は疲弊し、それは清蓮の動きを止めたが、頭の中で目まぐるしく動き続ける感情は、清蓮を混乱させ、不安定にさせた。 まさか自分がこんな目に遭うなんて…。 私が父上、母上を殺すなんて…。 そんなことしない! 絶対にしない‼︎ これはきっと夢だ。 絶対に夢だ。 私は悪い夢を見ているんだ…。 いよいよ疲れ切った清蓮は、考えることもままならなくなり、腫れた瞼が瞬きするたびに重くなるのを感じた。 不思議なことに、清蓮が瞬きするたび、白い鹿と長身の男が交互に現れては消えていくのが見えた。 だが、清蓮にはそれらに関心を向けるだけの気力は残っていなかった。 明日、目が覚めたら父上と母上のところに行こう…。 昨日とても怖い夢を見たんですと。 父上は笑い飛ばして言うだろう。 心配しなくていいと。 ただの夢だと…。 母上もやっぱり笑って言ってくれる。 なにも心配しなくていいのよ。 貴方は神の祝福を受けているんだからと。 そう言ってくれる…。 父上も、母上もきっとそう言ってくれる…。 清蓮は、遠のいていく意識の中で両親に思いを馳せた。 闇は静かに漂い、清蓮を深淵に誘った…。

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