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第十六話 困惑の果て
男は扉の方に行き、呼び鈴を鳴らす。
男は廊下に出て、なにやら店の者にと話している。
ほどなくして、店の男が真新しい肌衣と衣装、湯の入った小さな桶、*唾壺《だこ》、水差しと湯呑みをもって来て男に渡した。
一方寝台に横たわったままの清蓮は、全身の力が抜け、放心の体で、天井の一点を見つめていた。
なにが…起こった?
彼は…なにをした⁈
彼は自分の身に起こったことを理解したかったが、あまりにも多くの出来事に頭が追いつかなかった。
まいったな…。
清蓮は無意識のうにちに、自らの指で耳元から首筋を撫で、男が触れた軌跡をたどった。
あんなはしたない…。
しがみついて…。
でも、ああでもしないと店の男は納得しなかっただろう。
致し方ないことだ。
男もそれがわかってやったのだろう。
だから、触れたところを消すように手拭いで拭ったのも、そういうことなんだろう。
そうは思ってみたものの、なぜか清蓮は男が触れたあの感触を思い出し、また体が火照ってくるのを感じた。
清蓮は冷静になれと目を閉じ、深呼吸を繰り返して火照る体と心を鎮めようとした。
しばらく呼吸に集中すると、次第に冷静さを取り戻していった。
男の方はというと、店の男から頼んだものを受け取ると、清蓮のそばにそれらを置く。
気配に気づいた清蓮は、身を起こして男を見る。
しばし互いの様子を探るように見つめ合う。
清蓮は静寂が我慢ならず、一刻も早く彼から話を聞きたいと口火を切ろうとすると、先に男が口を開く。
「脱いで…。」
「えっ⁈」
またしても予想だにしなかったことを言われ、清蓮は心臓が飛び出しそうになり、さっと男と反対側の縁に身を寄せ警戒する。
また、なにを言ってるんだ⁈
今度は脱げたと⁈
さっきは自分を捕まえに来たと言ってたけど、それは嘘で、本当は遊女を買いに来たんだ!
…いや、待て。
遊女を買うというのなら、男の私でなく他の女性《にょしょう》を買えばいい。
私が皇太子だと、男だとわかっても、そう言ってくるということは…。
男でも女でも構わないということか⁈
どうする?
どうやってここから出る?
彼はかなりの手練だ。
勝てるのか?
清蓮は、頭の中で目まぐるしく思考を回転させていた。
すると、なぜか男はくすくすと笑い出した。
清蓮は、男が急に笑い出すのを見て、
なぜ笑う?
全くわからない…。
彼はつかみどころがない、というかなんというか…。
清蓮は、どう反応すればよいのかわからず、困惑していると、
「殿下、聞こえている…。」
男は落ち着き払った声でそう言う。
「えっ?聞こえてる?なにが⁇」
「独り言…。」
「えっ‼︎」
男の言う通り、清蓮はぶつぶつ大きな声でつぶやいていたのだ。
清蓮は男に背を向け、うわーっと顔を隠しては言い訳を始める。
「頭が混乱すると、思ったことをつい口にしてしまう癖があるんだ。
自分では声に出してるつもりはないんだけど、周りの人たちからは、気をつけろって。
あー、またやってしまったんだ!
あぁ、別に君のことを悪く言うつもりはなかったんだ。
人にはそれぞれ事情も好みもあるからね。
なにをするのも君の自由なんだ。
でも、失礼なことを言ったのは間違いないから、気を悪くしたならすまない。
ただ、どうなんだろう?
君の相手として私は?
他にもっといい人がいるんじゃないのかな?あ、いや、そうじゃない、そういうことが言いたいんじゃない!
あぁ、本当にごめん。
いろんなことが次から次へと起こって、もう頭のなかがおかしくなって、自分でもなにを言ってるかさっぱりわからないよ‼︎」
清蓮はみっともないほどの醜態を晒した。
清蓮は話せば話すほど、収拾がつかなくなり、もうどこかに隠れてしまいたい気持ちでいっぱいになった。
そんな清蓮の醜態も、男には新鮮だったようで、くすくすと笑った男の切れ長の目は、まるで夜に煌めく三日月のように美しく変化した。
反対に硬質の美貌は、柔らかな陽射しを受けたかのように眩しく煌めく。
清蓮はそんな男の様子を見て、自分の醜態はどこへやら、男の笑顔に魅入ってしまった。
なにを考えているのか、さっぱりわからなくて、つかみどころがない男《ひと》だけど…。
優しい顔で笑うんだ…。
清蓮は嬉しくなって、そんなに笑わないでくれと照れ笑いする。
「貴方は…、とてもおもしろい人だ。」
男はおもむろに話す。
だが決して嫌味ではない。
「君は…、不思議な人だね。つかみどころがないというか…。あ、別に悪い意味で言ってるわけじゃないからね。」
清蓮も素直に話す。
「うん…。わかっている。」
ずっと緊張した中で過ごしてきた清蓮にとって、穏やかな言葉のやりとりは、清蓮を安心させた。
今日、初めてちゃんと話をしたのに、ずっと前から知ってるみたいだ。
とても居心地がいい…。
不思議だな…。
清蓮は彼と演舞場で初めて会った時から、どこかで会ったことがあるような既視感を感じていた。
でも前に会ってたら、こんなきれいな男《ひと》忘れるわけないのにな…。
男は清蓮が逃亡中に怪我した背中や腕の傷の手当をしようと、脱ぐよう言ったようで、誤解していた清蓮は、
「はは…。私は君の親切を勘違いして、本当に君に失礼なこと言ったね。許してくれ。」
私を捕まえに来たと言った彼の意図はわからないけど、どうやら宮廷に連れ戻そうとしているわけではなさそうで、清蓮は心から安堵した。
きっと温蘭の町中での騒動の時に、私を見かけたのだろう…。
それなら辻褄が合う。
でも、なんで私が怪我してることを知ってるのかな?
彼は…。
なんでもお見通しだ…。
全くもって、神がかっている…。
まぁ、姿見も神々しいから、彼が自分は神様だと言ったら、信じてしまうかもな。
清蓮は、今度は彼に聞かれないように、心のなかで思いを巡らし、一人合点した。
*唾壷《だこ》…たんつぼのこと。
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