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第四話 治らない傷
「そんな…。」
見間違いだったのか⁈
いや、違う。
傷はあった。
清蓮がうけた傷と同じものが、光聖の胸にもあったのは間違いない。
自分が鏡の前で傷を確認している間に消えたというのか?
あるいは跡形もなく消し去ったというのか⁈
清蓮は光聖の腕や背中をくまなく見るが、やはり傷ひとつない。
ここにあったはずなのに…。
清蓮は指先で傷があったであろう光聖の胸をそっと撫でた。
清蓮が構わずぶつぶつ独り言を言いながら指先で光聖の胸を何度も這わせていると、耐えきれなくなったのか、光聖の胸筋がびくんと一瞬引き攣《つ》った。
「あっ!ごめん。」
清蓮は慌てて手を引っ込め、俯いたまま、もう一度謝った。
清蓮はきっと光聖が気を悪くしただろうと思い、彼の顔をまともに見ることができない。
清蓮はいたたまれない気持ちになって、この場から逃げだしたい気持ちでいっぱいになったが、自分で蒔いた種は自分でなんとかしなければならないと、意を決して顔を上げ、光聖をまっすぐ見据えた。
二人の目が合うと、光聖は「気が済んだ?」と切れ長の美しい目には、少なからぬ好奇心を漂わせ、軽やかな口調で清蓮に問いかける。
少し首を傾げながら語りかける様は、どこか子供っぽさも感じさせる。
清蓮は光聖が怒ってはいないことに心から安堵し、しどろもどろになりながらも、ことの経緯を説明した。
「それで、納得した?」
光聖は清蓮を試すように再び聞いてくる。
清蓮は正直どう答えようか迷った。
あれは間違いなく自分がうけた傷をなんらかの方法で移したに違いないのだ。
光聖は医術も仙術も並外れたものをもっている。
傷を自分に移すなどとは奇術でしかないが、それでも光聖なら、いとも簡単にできそうな気がしてくるのだ。
それにもし自分が夢で見たあの赤子が光聖であるなら、彼は人智を超越した存在ということになる。
逃亡中の森の中、熱にうなされる中で見た白鹿も彼の幻影の一つということなのだとしたら、奇術に等しい出来事もやはり神技でできてしまうということなのだろう。
清蓮は知りたかった。
傷のことや光聖のこと。
君は一体何者なのかと。
聞いたらちゃんと答えてくれるのだろうか?
すんなり答えてくれそうな気もするし、はぐらかして終わるような気もする…。
でも嘘はつかないだろう。
それだけは分かる。
彼は嘘はつかない。
ならば本人に聞いて確認する以外、知る術はない。
答えたくなければ答えなければいいだけのことだ。
「光聖。君に聞きたいことがある。答えたくなければ答えなくていい。でも、どうか嘘は言わないでくれ。」
「わかった。でも、その前に肌衣を着て。病み上がりなんだから、体が冷えたら大変だ。」
「…‼︎」
清蓮はすっかり忘れていたのだ。
鏡台の前で体の傷を確認した後、上半身裸のまま光聖の前に飛びてしまっていたことを。
光聖はやれやれといった感じで、清蓮の肌衣を整える。
その手つきはどこまでも丁寧だ。
きれいな手をしてる…。
白魚のような手とはのよく言ったものだな。
清蓮は光聖の造形美に改めて気づくとともに、丁寧に扱われることにそこはかとない喜びを感じていた。
「ありがとう…」
「うん。」
「君も着ないと…。せっかくきれいに着てたのにぐちゃぐちゃだ。ごめん。」
清蓮はそう言って、脱がせた衣を一枚一枚整えていく。
襟元をきれいに揃え整えると、満足気に「うん、これでよし!」とぽんぽんと光聖の胸を叩く。
清蓮衣を整えてもらっている間、光聖も清蓮の指先が優雅に動く様を悦にいったように見守っていた。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
「そうだ。もしいやじゃなかったら…、この中から衣装を選んでみない?店の者に取り急ぎ用意させたから、宮廷で着ていたものに比べると見劣りするかもしれないけど。もしかしたら君に似合うものがあるかもしれない。」
光聖は控えめに清蓮に提案する。
色鮮やかなものから落ち着いた色合いのものまで、部屋中所狭しと並べられており、
光聖は見劣りすると言っていたが、遜色ないほどのものばかりであった。
これほどまでのものを短時間で用意したと言うのか?
この遊郭の部屋だって、売春宿ではあるが、それでも上客専用の上等な部屋で、調度品も美術品もそれなりのものだ。
「どれもとても見事で素敵だ。見劣りなんて全然しない。さっき店の者に用意させたと言ったけど、ここにあるものは光聖、君が選んだんだろう?」
清蓮は衣装一つ一つ手にとって、色合いや質感、装飾など目を輝かせながら確認していた。
清蓮は過度に華美なものは好まなかったが、それでも職人の手の込んだ仕事ぶりを見るのは楽しいことであった。
宮廷にいた頃は、母上や名凛と一緒に生地を選んで、思い思いの希望を伝えて、かなり手の込んだものをしつらえてもらったな…。
三人で仕上がった衣装で着ては互いの衣装を褒めあって…。
それを呆れた顔して見ている父上がいて…。
清蓮は手を止めて、重いため息をついた。
清蓮はいまだに信じられなかった。
両親がもうこの世にはいないなんて。
自分が謀反を起こして、逃亡者となっているなんて…。
現実は否応なしに清蓮を深淵に底に突き落とす。
深淵の底はとてつもなく深く暗い、光も届かぬ世界はどこまでも孤独だ。
清蓮は暗闇に堕ちていく自分をなす術もなく見ているしかなかった。
清蓮が孤独の一点を見つめていると、ふと遠くの方から自分の名を呼ぶ声が聞こえて、我に返る。
「清蓮…。」
光聖が心配そうに見ているではないか。
「あ、ごめん。ちょっと考えごとしちゃって。どれも素晴らしいもので選ぶのが難しいな。」
清蓮は光聖に気を使わせたくないと思い、努めて明るく振る舞うが、どうしても声は弱々しくなっていた。
清蓮を見つめる光聖の目は、どこか悲し気で辛そうだが、清蓮にかける言葉は優しさがこもっていて、
「疲れただろう?少し休んだほうがいい。私でよければ君に似合いそうなものを選んでおくから…。」
「ありがとう。そうだね…。少し横になろうかな。」
清蓮は光聖の自分を思いやる心に感謝した。
「またあとで衣装を見せてもらうよ。せっかく君が用意してくれたんだ。無駄にはしたくないからね。」
清蓮は笑い泣きの笑顔を光聖に見せて寝室に戻って行った。
清蓮は寝台に横になると、掛け物に隠れて声を押し殺しながら泣いた。
光聖に聞かれて心配させたくなかったし、なにより皇太子が人前で泣くなど王族としての誇りが許さなかった。
国王である父から、王たるものは人前で涙を流すのもではないと教えられてきたからだ。
父を亡くした清蓮にとって、その教えはたとえどんな些細なことでさえ、失いたくない大切なものであった。
寝室の隣では、光聖が扉の前で立ち尽くし、寝室から啜り泣く清蓮の声を聞き、絶望的な気持ちに陥っていた。
体の傷はかいとも簡単に治してあげた。
しかし心に負った傷はそう簡単には治らない、治せない。
「あなたが少しでも救われるのなら、あなたに代わって深淵の底に落ちることなど厭わない…。地獄に堕ちたってかまわない…。それなのに…。」
光聖は苦渋の表情を浮かべ、自分の無能さを呪った。
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