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第五話

清蓮は掛け物に隠れてひとしきり泣いた後、現実から逃れたくて目を閉じた。 眠るつもりはなかったが、どこからともなく香の香りがしたかと思うとそのまま眠ってしまった。 清蓮が再び目を開けた時、すでに夜になっており、部屋には行灯が灯されていた。 いつの間にか寝てしまったらしい…。 鏡台に香炉が置いてあったが、もうその香りは消えている。 光聖が焚いてくれたんだろう…。 清蓮は身を起こし、ぽつり独り言を言う。 「そういえば、また夢を見たな…。」 清蓮が見た夢は、壮年の男性と五歳くらいの男の子と自分の三人が楽しそうに話している夢だ。 幼い男の子を真ん中に両端に清蓮と壮年の男性がいて、それぞれ幼子の手をとって森の中を歩いている。 三人ともとても楽しそうで、皆笑顔だ。 壮年の男性は、長い黒髪を後ろでゆるく編んでいる。 涼し気な切れ長の目、立ち姿からして光聖にそっくりの美しい男性だ。 幼子は聡明さの中にも子供らしさがあふれる愛らしくも美しい、これも光聖がそのまま小さくなったような男の子だ。 清蓮はというと十歳くらいだろうか。 「そうだ、間違いない。あの幼子は光聖で、あの男性は仙術の師匠だ!なぜ今まで思い出せなかったんだろう。」 清蓮はある一時期、友泉や臣下の子息たちと仙術を学ぶため、とある霊山のにある修練場で修行していたことがあった。 清蓮はなかなかの腕前で、いずれ仙術を極めるところまでいくだろうと思われた矢先、生死を彷徨うほどの高熱を出し、宮廷に急ぎ戻ったきり、二度と修練場に戻ることは叶わなかったのである。 「光聖にいろいろ聞かなきゃ。」 清蓮は光聖と会った時から少なからぬ縁を感じていたが、自分が思っている以上に彼との縁が強く感じられ、嬉しくなって頬が緩んだ。 「そういえば、光聖はどこに行ったんだろう。」 清蓮は寝室にも居間にも光聖がいないことに気づく。 「まさか、まだ隣の部屋にいるわけはないだろうし。」 寝室の隣の部屋を覗くが、誰もいない。 居間に行くと、卓の上には「すぐ戻る、ここにいて」と書き置きが置いてあった。 その流麗な文字は書道のお手本と言って良いほどの腕前だった。 清蓮はその書き置きを小さく畳んで懐にしまった。 同じく卓の受けには粥と茶が用意してあり、どちらもまだ温かい。 長椅子には光聖が選んだ衣装一式が整然と並べられていた。 若竹色の爽やかな衣、絹色に草花が散りばめられた更紗紋様の帯、翡翠の帯留。 白檀扇子は扇いだ時に上品な香りが仄かに漂い、繊細な透かし彫りがなんとも美しい。 清蓮は茶と粥を食べた後、もう夜だから、明日にすればいいものを光聖が選んでくれた衣装だからと着てみる。 鏡台の前に立って自分の姿を見ると、その衣装は初めから清蓮のために仕立てられていたかのようにぴったりだ。 若草色も更紗帯も、翡翠の帯留も完璧だ。 ただ一つ残念なことに、見目麗しい清蓮の両目の瞼は赤く腫れており、彼の美しさを幾分損なっていた。 情けない顔を見て清蓮は、 「ずいぶんと素晴らしい顔をしてるじゃないか、清蓮。せっかくの衣装が台無しだぞ。」 鏡に映る不甲斐ない顔を見て、清蓮は苦笑いした。 「もう、泣くのはやめよう。泣いたって現実は変わらない、変えられない。変わるのは…、変えられるのは…自分の心のありようだけだ。」 清蓮は両手で軽く自分の頬叩き、鏡の自分に力強く頷いた。 とは言ったものの、光聖が戻ってくる前に赤く腫れた瞼はなんとかしたいと、夜風にあたることにした。 居間の小さな格子扉を開けると、心地よい風が青蓮の頬をくすぐった。 「気持ちいい…。」 清蓮は目を閉じて、風に吹かれるまま佇んでいた。 しばらく風にあたっていると、体の熱が少しずつ奪われていき、肌寒く感じてきた。 さすがにもういいだろうと格子扉を開けて閉めようとすると、どこからか男たちの声が聞こえてくる。 清蓮が気づかれないように眼下に目をやると、店の男たちが女たち数人を伴って、荷馬車に乗せているのが見えた。 その女たちの中には清蓮を世話してくれた女も含まれていた。 「こんな夜半に…。そうか!女たちを剣山に連れていくつもりだ‼︎」 清蓮が光聖に買われ、部屋に案内されることになった時に女が話していた。 使い物にならない女たちは皆、剣山に捨てられるというあの話。 清蓮はここに来た時、哀れな女たちを一人でも救ってやりたいと思っていた。 そんな機会はそうあるはずもない。 今しかない! 清蓮は懐刀を懐にしまうと、荷馬車が出発するのを見届けてから、格子窓からふわりと飛び降りだ。 清蓮は自分の体が動きが軽やかで、これならあの男たち数人くらい、あっという間に圧倒できると確信した。 荷馬車は一本道を走り去っていく。 清蓮は人目を確認しながらも急いで荷馬車が停めてあった、その近くにある厩舎に行き、馬を一頭拝借した。 清蓮は馬の扱いに手慣れおり、彼が近づいても馬は警戒することなく、見るからに従順で、清蓮が馬の鼻をとんとんとたたいてやると、嬉しそうに清蓮の頬を舐める。 清蓮はその馬に跨って一定の距離を保ちながら荷馬車を追っていった。 前を走る荷馬車は遊郭からそう遠くない山の麓で止まった。 店の男たちは女を一人ずつに馬車から降ろす。 清蓮も少し離れたところで馬から降り、気配を消し、歩いて剣山近くまでたどり着いていた。 女たちの様子を見ると、泣きじゃくる者もいれば、威勢よく罵声を浴びせる者、虚な表情ですでに死んでいるかのような者までいて、哀れでならなかった。 ただその中に泰然とした様子で佇む女が一人。 それは清蓮の世話をした女だった。 彼女はまるで他人事のように受け止めているようだ。 そうこうしているうちに、男たちは女たちを一列に並ばせ、誰から剣山に捨てようかと、たちの悪い冗談を言いながら笑っている。 「俺と一発やったら、最後にしてやってもいいぜ。それでまだ使いもんになるってわかったら、俺から旦那様に口添えしてやってもいいしな。」 「お前、頭いいな。それのった!俺最近やってないから、抜きたいんだよ。ぼろ雑巾みたいな女でもいいから、穴に…こうやって…突きまくってさ!」 そう言った男は一人の女の腰をがっと掴んで、腰を振って男たちの笑いを誘う。 死を目前にしてさえ侮辱される女たちを見て、清蓮はいよいよ込み上げてくる怒りを抑えることはできず、女たちの前に立ちはだかった。 男たちは一人の貴婦人が突如として目の前に現れ、度肝を抜かれた。 男たちは互いに見合うが、一体なぜ女がここにいるのか理解できない。 女たちもそうだ。 なぜ女が自分たちの前に現れたのか、自分たちを庇うのか…。 一人の男が暗闇の中、もっている提灯の明かりを女に向けると、明かりに照らされた清蓮の顔が浮かび上がる。 店の男と、泰然とことを構えていた女が同時に「あっ!」と声をあげた。 彼らは女が清蓮であることに気づいたのだ。

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