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第九話 深淵の光

清蓮はあまりにも突然の出来事になす術もなく、真っ逆さまに深淵の底に向かって落ちていく。 月はまたも隠れてしまい、女は落ちた清蓮がどうなったのか知る由もなかったが、それはどうでもいいことだった。 女は清蓮の世話をした時、気づいていたのだ。 女は以前、一度だけ清蓮を見たことがあったのだ。 あの成人の儀に…、女は二階の末席にいた。 清蓮にとっての晴れ舞台は、演舞場の警護という重要な任務を任された女の夫にとっても、妻に見せたい晴れ舞台だった。 夫は自分の姿を妻に見せようと、何度も何度も願い出て、やっと用意してもらった席だった。 あの日、清蓮は舞台の中央にいて、天女の如く、その姿は遠目からも光り輝いていた。 女にとって、夫の姿は誇らしいものだった。 それなのに観客の暴走は、清蓮にとって、この夫婦にとって、悲劇の始まりとなってしまったのだ。 女は夫を失って以来、途方に暮れ、死んだほ夫の後を追おうかと思うほどだった。 もう二度と自分の人生に、希望も喜びも訪れはしまいと思っていた。 それが願ってもいない復讐の機会を得て、女はにわかに生きる希望を取り戻し、ついに夫の無念を晴らすと、またとない喜びを得た。 女は青蓮が落ちた深淵に向かって、 「地獄へ行くがいい。」 そう言い捨て、闇に紛れて消えた。 剣山と呼ばれた巨大な穴はどこまでも深く、清蓮は不快な浮遊感の中、その身を落としていく。 そういえば、二千年の間、泣きながら一人で真っ逆さまに奈落に堕ちていく話を聞いたことがあった…。 そんな馬鹿な話と思っていたけど…。 清蓮は激痛と混沌とする意識のなか、自分は本当に奈落の底に落ちているのだと、これから一人、終わりのない深淵に向かって落ちていく様に、なんともやるせない気持ちになった。 私は愛する人たちといつまでも一緒にいたかっただけなのに…。 なぜみんな私を憎むのだろう…。 清蓮は落ちるだけ落ちたところで、なにかに背中を打ちつけ、全身に衝撃を受ける。 なにかにぶつかった拍子に、清蓮の体はぽんと一度跳ね上がり、そして今度は地面に叩きつけられた。 「ぶはっ!」 清蓮は地面に叩きつけられた衝撃で血を吐いた。 暗闇でなにも見えないが、天に向かって吐いた血は、返り血のように清蓮の顔に降り注ぐ。 女が刺し、清蓮の腹を貫いた刀は、そのまま地面にも突き刺さって、清蓮は身動きとれない。 そもそも高所から落ちて来たのだ、その衝撃は計り知れず、身動きなどとれるはずもないが。 巨大な穴の底は、闇夜でなにも見えない。 日の当たる日中も、上から覗き込んだところで、巨大な穴の底は暗く、伺うことはできない。 だが万が一勇気のある者が、巨大な穴の底に辿り着いて、空を見上げたなら、ここが闇の世界に支配されているのではなく、天からの薄光が深淵の底まで差し込み、小さな世界を作り出しているのに気づくだろう。 もう少し周りに目を向けたなら、限られた空間の中に原生林が広がり、一角には小さな滝があって、流れる水は岩を打ちつけ、小さなせせらぎを見ることができるだろう。 さらには低木や草木もひっそりと根を生やしており、清蓮は地面に叩きつけられる前、この低木の上に落ち、それから地面に叩きつけられたのだった。 全身を襲う激痛と遠のく意識の狭間で、怪しげな咆哮が清蓮の失いかけている聴覚にかすかに届く。 その人とも獣とも思えぬ咆哮は、来死鳥《らいしちょう》と呼ばれる鳥の鳴き声だった。 この鳥は友安国の至るところに生息する小鳥で、丸々と愛らしい姿をしているが、体のわりに、嘴は細身の刀剣のように長く、眼光も鋭い。 来死鳥は普段なにもなければ人間に危害を加えることはしない。 その実、人々が来死鳥が上空を飛んでいるのを見ると、人々は一旦立ち止まって、必ず自分の体に傷ができていないか、出血していないか確認するのだ。 小さな子供を持つ親は、やんちゃな子供が怪我をしないか気を配り、子供といる時は血止めの薬を持ち歩く。 そして大人たちは子供たちに、小さいうちから来死鳥の恐ろしさを語り継ぐのだ。 なぜ人々は来死鳥にそれほどまでの注意を払うのか。 それは彼らが少しでも血の匂いを嗅いだならば、どんなに離れていても、どこからともなくやって来て、人だろうが動物だろうが、手当たり次第喰うからだ。 彼らはただの小鳥ではなく、人喰い猛禽類なのだ。 来死鳥は常に数百が集まり群れをなして行動しているが、獲物を襲う時は大抵、若い雄が一羽飛んできて、先陣を切って攻撃する。 必ず獲物の片目を一撃で潰し、獲物の動きを止めるのだ。 そこに次から次へと一群が獲物に襲いかかり、鋭い嘴を突き立て、肉をついばんでいく。 数百の来死鳥に襲われたとあっては、生身の人間にとってはたまったものではないが、狙われたが最後、なす術もなく、生きながら喰われていくのだ。 どうやらこの巨大な穴は、来死鳥の巣のようだ。 それもそうだろう。 定期的に不用となった女たちが捨てられたり、うっかり落ちてしまった小動物などが労せずこの巨大な穴に落ちてくるのだから。 来死鳥にとってこんなに素晴らしい狩場はないというわけだ。 先陣を切って一羽の若い雄が奇声をあげながら清蓮に近づき、清蓮の片目を突き刺す。 「うぁあぁー‼︎」 清蓮は人ならざる声で絶叫する。 若い雄の一撃を合図に、次々と来死鳥が清蓮に襲いかかってきた。 数百の群れは整然と順番に清蓮の体を喰いちぎっていく。 暗闇でその姿は見えないが、嬉々として清蓮の肉をついばみ、咀嚼する音が聞こえる。 来死鳥が清蓮の体中の肉を食いちぎるたび、清蓮は何度も悲鳴をあげるが、もう声は声にならない。 いっそのこと、気を失ってしまえば楽になるものを、来死鳥は生きた血肉が好きとあって、そこ意地悪く清蓮に苦痛だけを与え続ける。 片目は食い潰され、美しい顔もあちこち喰われて見る影もない。 その壮麗な美しさは跡形もなく、無惨と言うしかない。 清蓮はそれでも生きている。 こんな苦しい思いをするくらいなら、いっそ死んだ方がましなのに、それでも終わりは許されない。 痛い、痛い! 殺してくれ! 殺してくれ! もう殺してくれ! お願いだ、もう殺してくれ‼︎ 清蓮はどんなに叫んでも、もう声を上げることもできない。 そんな責苦の中、一羽の来死鳥が清蓮の水晶をついばもうと首紐を引っ張り始めた。 清蓮は息も絶え絶えだったが、来死鳥が水晶をついばもうとしているのを感じると、どこからそんな力が湧いてくるのか、水晶を握りしめて離さない。 触るな! 触るな‼︎ これは…、これは…光聖がくれたんだ…! お前たちなんかにやるものか! 絶対にやるものか‼︎ 死んでもお前たちにはやらない! 死んでも離さない‼︎ 清蓮はもう虫の息だったが、来死鳥の執拗な攻撃にも関わらず、彼は水晶を離さなかった。 痛みが極限に達した清蓮は、すでになにも感じなくなっていたが、水晶を握りしめていると、いつものように体がほんのり温かくなってくる。 遠のいた意識がほんの少しだけ蘇ってきたようで、遥か遠くからなにかが近づいて来るのを感じた。 清蓮はなんとか無事な方の目を開けるが、見えるのは変わらず漆黒の闇だ。 気のせいか…。 清蓮は水晶をしかと握りしめたまま、見えない闇を見ていた。 また意識が薄れてきた時、闇の中に一点の小さな光が近づいてくるのが朧げながら見えた。 光だ…。 柔らかい、温かな光…。 清蓮は死にゆく者が見る幻覚かなにかだと思ったが、間違いなくそれは一つの光で、清蓮に近づいてくる。 清蓮の肉を喰らっていた来死鳥は一斉にけたたましい声をあげて威嚇するが、弾けた音が響いた後、その鳴き声は奇妙な鳴き声に変わり、来死鳥はものの一瞬で消滅した。 光はついに清蓮のすぐ近くまで辿り着く。 そこで初めて深淵の底に落ちた清蓮は、朧げではあったが、光を伴ってやって来た光聖の姿を見ることができた。 あぁ…、光聖…。 やっぱり…君だったんだね。 来てくれたんだね…。 清蓮は死の間際に光聖に会えたことを心から嬉しく思った。 痛みも苦しみもなんてことないと思えるほどだ。 清蓮は幸せな気持ちでいっぱいだったが、光聖はどうやら異なるようで、清蓮は不思議に思った。 声にならない声で清蓮は光聖に語りかける。 光聖…、どうしてそんなに驚いた顔をしているの? 私があまりにも酷い格好をしているから? 光聖…、どうしてそんなに苦しそうな顔をしているの? 大丈夫…。 私はもうどこも痛くないんだ…。 光聖…、どうして泣いているの? 私は君に会えて嬉しいのに…。 こんな嬉しいことはないのに…。 清蓮は力を振り絞って、来死鳥に至るところを喰い尽くされ、枯れ枝のようになった腕をあげ、光聖に握っていた水晶を誇らしげに見せる。 さっき来死鳥が来てね、君がくれた水晶を持って行こうとしたんだ…。 でもね、見て…。 ちゃんと持ってるでしょ。 しっかり握って渡さなかったよ…。 これは君がくれたものだからね…。 大事なものだから…。 震える手の中で水晶は、光聖から放たれるほのかな光できらきらと輝く。 清蓮は、しばらく水晶の眩い煌めきに見惚れてきた。 あぁ…、きれいだ…。 本当にきれいだ…。 清蓮は疲れて握っていた水晶を離し、片目を閉じるが、また少し息を吹き返して、光聖に向けて手を伸ばす。 光聖…。 もう少し、もう少し私の近くに来て…。 君の顔を近くで見たいんだ…。 君に触れたいんだ…。 君に…触れてもいい…? 清蓮は伸ばした手が、柔らかく包まれる感覚を覚えた。 光聖…。 あぁ…。 光聖…君はその名のとおり…光に満ちて…輝いている…。 私の…。 清蓮はなにも見えなかった。 なにも聞こえなくなった。 清蓮は…もう…なにも感じなかった…。

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