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第十一話 目覚め
「お兄様…!お兄様…‼︎」
名凛の声が清蓮の聴覚をちくちくと刺激する。
清蓮は見向きもせず、首を横に振っては面倒とばかりに、名凛の声を無視する。
静かにしてくれ…。
私に話しかけないで。
どうせ君も私から離れて父上と母上のところに行ってしまうんだろう?
私を一人ぼっちにするんだろう?
だったらもうほっといてくれないか!
名凛が清蓮の手を握りしめる。
清蓮は振り払おうとするが、その力はあまりにも強く、握られた手は痛くて痛くてたまらない。
あまりの痛さに思わず、清蓮は嫌々ながらも目を開け、名凛に文句を言おうとした。
「名凛…!いい加減に…」
「あぁ…、お兄様…!お兄様‼︎」
名凛は清蓮の手をしっかりと握って、目を開けた清蓮を上から覗き込んでいる。
名凛の目からこぼれ落ちる宝石のような涙は、一滴、二滴と清蓮の頬を濡らす。
清蓮は夢か現《うつつ》かわからぬようで、名凛を見て茫然としている。
「お兄様、私よ。名凛よ、わかる?」
清蓮は終わることのない夢を繰り返し見ているのかと思い、瞼を閉じ、一息ついてからもう一度目を開けた。
清蓮の目の前には、やはり名凛がいる。
清蓮と瓜二つの顔をした、二つ年下の妹。
左の額には生まれながらの赤いあざがあって…。
そう、確か…名凛と最後に会ったのは、あざの治療で太刀渡家に出発したときだった…。
その赤いあざは幾分小さくなったように見えるが、それでもまだ名凛の美しい顔の一部としていやらしいまでに張りついている。
「名凛…。」
清蓮は手を伸ばし、名凛の目からこぼれ落ちる涙をそっと拭ってやると、名凛は清蓮の手を両手に握りしめ、笑いなきの顔で清蓮を見つめた。
清蓮は伸ばした自分の手を見ると、その手はなんら変わらぬ白肌に細長い繊細な指を備えている。
腕もそうだ。
逞しくも美しく伸びた腕。
清蓮は名凛に伸ばした手を自分の顔に持っていき、自分の右目を覆う。
見える…。
同じく左目も覆ってみる。
見える…。
潰された目もなんともない。
治っている…。
清蓮は名凛に助けてもらいながら、ゆっくり身を起こすと、小さく体を動かした。
どこも過不足なく動く。
何もかも変わらない、清蓮の体そのものだ。
むしろあの時のように、全身に充実感がみなぎっている。
光聖…。
君が…。
清蓮は嬉しさよりもなぜか心が暗然とした気持ちになってくる。
名凛はというと、こちらも心が落ち着かないようで、
「お兄様…。会いたかった…。私…、私…」
清蓮は子供のように泣きじゃくる名凛をそっと抱きしめ、震える声で、
「私も…君に会いたかった。父上や母上だけでなく、君も殺されたと聞いたから…」
清蓮は心の底から、名凛が生きていてくれたことに感謝した。
たった一人の妹…。
愛する人たちを失った二人…。
二人は気持ちが満たされるまで、強く互いを抱きしめていた。
清蓮は名凛が泣き止むのを待った。
清蓮に涙はなかった。
もう泣かないと決めたから。
泣いてもなにも変わらないと知ったから…。
清蓮は名凛を抱きしめたまま、背中を優しくさすって、名凛に優しく語りかける。
名凛が両親から怒られたり、友泉と喧嘩した時、彼女をなだめるために清蓮がよくやっていたことだ。
そうしているうちに爆発した感情も少しずつ潮が引くように小さく静かになると、ようやく落ち着いた名凛が寝室の隣の居間に清蓮を案内した。
二人は並んで座り、清蓮は、
「名凛、いろいろ聞きたいことがあるんだ。どれから聞いたらいいのかわからないくらい、たくさん聞きたいことがあるんだ」
「お兄様、私もよ。一体なにがどうなっているんだか。一つひとつお互いの知りたいことを確かめていきましょう」
「うん。そうだね。私から聞いてもいい?」
名凛はこくりと無言で頷く。
「まず、友泉はどこにいるんだ?君と一緒にここに来たのだろう?なぜ彼は君のそばにいないのだ?
彼の父上も亡くなったと…、それは本当なのか?」
友泉のことを聞かれた名凛は、また涙が溢れ出そうになるが、ぐっと堪えて、
「確かにここに来たわ。でも太刀渡家から私と乳母の梅月だけが屋敷に入るのを許されたの。友泉は知らなかったから怒っていたけど、私はお父様から言われていたの。ここに行くようにって。ここなら安全だからって」
「安全?どういう意味だ?」
清蓮は父親である国王の姿を思い返していたが、特段変わった様子はなかったように思えた。
「確か成人の儀が終わってすぐの頃よ。お父様の元に、一枚の文が届いたの。そこにはたった一言、私が狙われていると書かれていたの。それを見たお父様は、出処《でどころ》を調べさせたんだけど、どうにもわからなくて…。それで、太刀渡家にお願いして、あざの治療という名目で私をここに置いてもらうことにしたの。お兄様も知っているでしょう?太刀渡家は政《まつりごと》には一切関わりを持たないって。ここに預けておけば、誰も入ってこれないって。お父様、太刀渡家の当主に、必死でお願いして…」
名凛は、言葉を続けることができず、俯いて肩を振るわせる。
清蓮は名凛を抱きしめて、何度も背中を撫でて、気持ちが落ち着くのを待つ。
あまり無理はさせられない…。
清蓮は名凛が落ち着いた頃を見計らって、
「名凛、時間はある。だからまたゆっくり話そう」
清蓮は名凛の頬をそっと両手に包み込み、春の日差しのような温かな微笑みを名凛に向ける。
その微笑みは名凛を安心させるには十分だった。
「でも、今日はあと一つだけ、質問させて…。あとひとつ…大丈夫かな…?」
「大丈夫よ…お兄様。あの男《ひと》のことでしょう?」
名凛の勘の良さも良し悪しだな…。
清蓮ははっとなって、全身が熱くなるのを感じたが、表向きは穏やかな笑みをたたえている。
「うん。あのね、私はとてもひどい怪我をしたんだ。死んでもおかしくないような怪我をね…。でも、なぜかこうやって何もなかったかのように生きている…。これはね…、間違いなく光聖が私を助けてくれたからなんだ。その彼が今どうしているのか知りたいんだ。どこにいるのか知りたいんだ」
名凛は清蓮が話す度に、うん、うんと頷き、最後まで丁寧に清蓮の言葉を聞いていた。
話を聞き終わった名凛の表情はどこが影を伴って、清蓮にどう伝えようか考えあぐねているようだ。
「あの男《ひと》が…、お兄様を連れて帰ってきたのは知ってるわ。お兄様様がたいそうな怪我をしたっていうのも。でも私はお兄様に会うことは叶わなくって…。お兄様がここに来てちょうど三月《みつき》経った昨日になって、お兄様に会えるって言われたの。でも、あの男《ひと》には一度も会っていないわ。どうしているのか、どこにいるのかも知らないの。」
「三月《みつき》…」
清蓮は胸の傷を負った時のことを思い出していた。
光聖が清蓮の胸の傷から膿を吸い出したあの時。
次の日には清蓮の体から傷はなくなっていた。
着替えをしていた光聖の胸に、清蓮と同じ傷を見た時、彼は目を疑った。
清蓮の傷を自らの体に移すなんて人間業ではない。
仙術を身につけただけでできることではない。
人智を超えているのだ。
神、あるいは神に近しい者だけができることなのだろう。
ただ…。
たとえそんなことができたとしても、わざわざ自ら望んでそんなことをする者はいないだろう。
たとえ神だとしても、そんなことする義理はないし、そもそも人が傷つくたびに、傷を請け負っていてはきりがない。
でも、光聖はそうやって清蓮の傷を治した。
そして、間違いなく今回もそうしたのだろう。
「光聖…」
清蓮はポツリと呟いて、胸にかけてある水晶に手を伸ばした。
水晶もちゃんと清蓮の手の中にある。
清蓮が来死鳥から必死で守ったものだ。
光聖と自分を繋ぐ大事なもの…。
清蓮は光聖に会いたいとひたすら念じてみた。
いつもなら水晶に触れるとほんのり体が温かくなって、幸せな気持ちになってくる。
だが、今清蓮の手の中にある水晶は冷たいままだ。
清蓮は背中に嫌な冷や汗をかき、心はざわざわと騒がしくなってきて、居ても立っても居られない。
清蓮ははやる気持ちを抑えられず、
「光聖はきっとこの屋敷のどこかにいるんだろう?私は探しに行く!」
「お兄様、だめ!さっき目が覚めたばかりでしょう!まだだめよ‼︎」
清蓮が止める名凛を振り切って部屋を出ようとした時、部屋の扉には女が一人、妖艶な美しさを身に纏い立っていた。
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