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第十六話 黒神様

清蓮たちが滞在する修練場は竜仙山の麓、同じく麓にある太刀渡家の屋敷からもそう遠くないところに位置している。 太刀渡家の眼前には湖があり、その湖面は天候や光の反射によって、色が変わると言われ、友安国でも有数の美しさを誇っている。 一方で、太刀渡家裏手には森が広がっており、さらにその森の奥深くに《黒神の森》と呼ばれる森が果てしなく広がっていた。 その黒鹿の森には魑魅魍魎が住んでおり、人が森に迷い込んだが最後、無事に生きて帰ることはできないと恐れられていた。 その森に住む黒い鹿はその森の主ともいうべき存在で、ありとあらゆる災いをもたらす魔物の象徴、黒鹿あるいは災いの神などと呼ばれ、古《いにしえ》の時から白鹿を象徴とする白神様と対極をなす存在として語り継がれてきた。  人々から恐れられているにも関わらず、意外にも普段は森の奥深く、静かに眠っていることが多く、その姿を目にすることは滅多にないと言われていた。 この黒鹿は気まぐれで、時折森に迷い込んだ人間をもてあそび、さらに森を出て傍若無人に振る舞っては、人々を恐怖のどん底に突き落すことを何よりの楽しみとしていた。 もし運悪く黒神様に遭遇し呪いをかけられたならば、災厄はその者の影となり、枷《かせ》なってどこまでもついて離れず、非業の死を遂げるまで解放されることはない。 人々は、いつ降ってかかるとも限らぬ災いを避けたいがために、魔物である黒鹿を黒神様と呼んでは、至るところに祠や堂を立てて崇め奉った。 そして災いが自分たちに向かうことのないように、供物を捧げたり、時には生贄を差し出しては黒神様の気まぐれな怒りをどうにか鎮めようと、一心に祈りを捧げるのだった。 光安は常日頃から門下生に、絶対に黒神の森に入らないよう言い聞かせていたが、その森に清蓮と光聖は迷い込んでしまったのだ。 はじめ清蓮と光聖は修練場を出てすぐ近くの森に入って行った。 そこは修練場の誰もがよく行く森で、清蓮と光聖は森のなかをてくてくと歩いていたのだが、二人で他愛のないおしゃべりをしていると、いつのまにか黒神の森に入ってしまっていたのだ。 本来なら太刀渡家や光安が張った結界によって黒神の森に入ること自体が無理なのだが、この時はその結界そのものがなかったのである。 彼らは引き返そうと思った時には、時すでに遅しで、もう引き返せないところまで入り込んでいたのである。 清蓮は光聖と手を繋いで歩いていたが、なにかがいつもと違うと感じ立ち止まる。 光聖も同じく違和感を感じたようで、緊張した面持ちで、清蓮の手を無意識にぎゅっと握りしめ、 「清蓮!黒神の森だ!」 清蓮も光聖の意味するところを理解し、頷いて 「光聖、引き返そう!」 光聖の手を引っ張って足早に立ち去ろうとした。 だが次の瞬間、光聖は驚きの目である一点を見つめ、石のように固まってその場に立ちすくむ。 清蓮も同じく光聖の見つめる先に目線を移すと、そう遠くない場所で、白鹿と黒鹿が互いの角と角を突き合わせ、互いに譲らず、互角の勝負をしているのが見えた。 清蓮ははじめ動物の鹿が闘っているのだと思った。 しかし両者の放つ強力な気のぶつかり合いは、この世のものとは思えないほどで、清蓮と光聖のところにも余波となって襲ってくる。 清蓮と光聖は立っているのが精一杯だ。 清蓮はそれが伝説上とされていた白神様と、魔物である黒神様であることを理解した。 想像を絶するほど激しく闘うその様は、恐怖を超えて畏敬の念さえ感じさせた。 清蓮はその戦いから目が離せなかった。 なぜなら清蓮が瞬きすると白鹿が現れ、また瞬きすると、今度は光安の姿が現れたからだ。 黒鹿もそうだ。 清蓮が瞬きするたび、黒い鹿と男の姿が交互に現れるのだ。 男の姿は見たことがあるような気がするが、はっきりとはわからない。 黒神の森に入ったせいで、幻視を見たのか、それとも目に見えていることが本当のことなのか、清蓮にはわからなかった。 わかっていることといえば、ただ一つ。 一刻も早くここから離れないと! 清蓮は光聖の手を引っ張って行こうとするが、光聖は清蓮にこの場を立ち去るように言った後、握っていた清蓮の手を離し、清蓮とこの森一体を守るため、一人結界を張りはじめた。 清蓮は光聖の意図を即座に理解し、自分も加わって結界を張ろうとした。 その時、黒鹿が白鹿の隙間を縫って、光聖に向けて黒い波動を投げつける。 光聖は結界を張ることに全力を傾けていたため、黒鹿が放った波動に気づいた時には、光聖の目の前に迫っていた。 白鹿も黒鹿が光聖に向けられた波動を食い止めようとするが、もう間に合わない。 光聖は目の前に突如として広がる漆黒の闇に飲み込まれていくのを、ただ見ていることしかできなかった。 光聖は闇に包まれる瞬間、心の中でただ一人の名前を呼び続けた…。

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