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第六話 ある男の物語

かつて一人の美しい武官が王族の護衛を務めることになった。 その者は幾度となく武勲を立て、二十歳の若さで王族の護衛に抜擢されたのだ。 その武官が仕えることになった王族の名は栄香《えいか》と言い、聡明で美しく、武芸にも秀でていた。 栄香は国王である清楽《せいらく》、その妻である香花《こうか》の娘で、第一子が後継者となる友安国にあって、次期女王として輝かしい未来を約束されていた。 栄香が十六歳になり、成人の儀のための最終確認を行った演舞場の帰り、栄香は自分の護衛が自分の乳母の甥ということを知り、その武官に親しく話しかけたことがある。 王族に声をかけられるのは誰にとっても名誉なことだが、この武官はそれを良しとしなかった。 生真面目な武官は任務中であることを理由に、内心はともかく、儀礼的な対応に終始していた。 おそらく自分が栄香の乳母の近親者という立場に甘んじることを好まず、そのような態度に繋がったのかもしれない。 武官は武勲をたてて注目を浴びるならまだしも、冷やかしの目で見られたり、あるいは嫉妬や中傷の対象になりたくなかったのだ。 栄香は武官の対応に少々がっかりしたのは事実だが、武官の意図するところも理解した。 不用意な言動はあらぬ噂の元凶となって、当人たちの意図しないところで羽をつけて飛び回り、瞬く間に宮廷に広まっていくからだ。 栄香自身もそのことを十分にわきまえなければならない立場でもあったため、それ以降武官に話しかけることはなかった。 それから十日後、無事に成人の儀を終えた栄香が宮廷に戻り、馬車から降りようとした時、積もり積もった疲労がもとで倒れそうになった。 「あっ!」 小さく声を上げた栄香のもとに、素早い動きで武官が目の前に現れ、倒れそうな栄香を真正面から受け止めるようにして体を支えた。 栄香から淡く甘い香りがふわりと漂うと、武官を優しく包み込んだ。 武官は思わず軽いめまいを覚えた。 栄香も一瞬の出来事とはいえ、無防備に武官の腕のなかに身を預けてしまう。 掴んだ腕の逞しさは栄香の心ををゆるゆると溶かしていく。 二人は互いの心が他人にわかってしまう前に、儀礼的なやり取りでその場をおさめた。 「お怪我はございませんでしたか、栄香様?」 「だ、大丈夫よ……。ありがとう……」 だが栄香は武官に身を委ねた時のぬくもりを、武官は栄香の白肌から漂う甘い香りを忘れることはなかった。 この瞬間から、二人は互いを無視することができなくなった。 ある日の夕方、栄香は書庫で異国について書かれた本を探していると、外から楽しそうな声が聞こえてきた。 栄香が書庫の小窓から下を見下ろすと、数人の武官がなにやら楽しそうに笑いながら通りすがるのが見えた。 栄香はその中に武官の姿を見ると、忽ち目が離せなくなってしまった。 なぜなら武官の、任務中には見ることができない、その柔らかい表情はあまりにも美しかったからだ。 栄香は武官の姿が見えなくなるまで見つめていた。 それからというもの、栄香はことあるごとに書庫に行っては眼下を眺めることが多くなった。 燃えるような紅葉がその情熱を一気に昇華させる頃、武官はいつものように詰所に戻るべく一人歩いていた。 燃え尽きた紅葉の一葉が風に揺れ、ひらりとひらりと武官の目の前を漂い落ちていく。 武官はその一葉手の平でそっとうけとめ、何気なく視線をあげると、書庫の小窓から女が自分を見つめているのが見えた。 その女が栄香だとわかると、武官は咄嗟に目を逸らしてしまった。 あまりにも不意の出来事で驚いてしまったのと、同時に王女を直視するなど不敬に当たると考えたからだ。 それでも武官は気になって見上げると、栄香は変わらずそこにいて真っ直ぐ武官を見つめていた。 武官は今度は目を逸らさず、栄香を熱く、熱く見つめた。 永遠を刻んだかのように、二人の視線がこれ以上はないというほど絡み合った後、栄香は胸元から正絹の手拭いを取り出し、自らの唇をそっと押し当てると、小窓を開け、そっと武官のもとにそれを落とした。 ゆるくなびく風が栄香の手拭いを武官のもとへ運んでいく。 武官は栄香の落とした手拭いを地面に落とすことなくつかむと、たおやかな栄香の肌から漂うあの時の香りが、ふわりと武官の鼻をかすめた。 武官が手にした手拭いは、絹糸で刺繍が施されていて、そこには小さな星のような、紫色の花が控えめに咲いていた。 武官はその花の名前を知らなかったが、手拭いについた栄香の紅をそっと指でなぞると、本当に栄香の柔らかい唇に触れたような錯覚を覚えた。 武官はしばらく俯いたまま、誰に聞こえるでもなく、栄香の名を呟いた。 武官が我に返って二階の小窓を見上げた時、もうそこに栄香の姿はなかった。 武官はまた俯いては目を閉じ、手拭いを握りしめたまま、瞼に栄香の残像を焼きつけた。 それ以降、二人は言葉を交わすこともなかったが、視線は否応なしに相手を探し、目と目があったなら、もう互いから目が離せなかった。 ただひたすらに、絡みつく視線だけが二人を結びつけた。 だが、二人の愛は成就することなく突然終わりを迎える。 栄香は成人の儀の翌年流行病にかかり、十七歳になる手前であっけなく死んでしまったのだ。 その早すぎる死はあっという間に国じゅうに広まり、国民は栄香の死を心から悼んだ。 栄香の逝去後、数日間降り続いた大雨によって大河・無間川《むけんがわ》が氾濫し、大きな被害をもたらした。 友安国の民はみなの涙が悲しみの雨となって無間川に降り注ぎ、氾濫をおこしたのだと、まことしやかに噂したほどだった。 栄香は女王になることなくこの世を去った。 そして、その弟であり清蓮の父となる清良《せいりょう》が友安国の後継者となったのである。

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