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第十話 起点(三)
ある夜のこと、乳母は嘔気を催した栄香のために、医官に煎じ薬を用意させた。
乳母はその煎じ薬を医官から受け取ると、それを盆に載せ栄香の寝室に向かった。
栄香の部屋の前には護衛が二人、警護についており、乳母が部屋の前に来ると、護衛の一人は慣れた様子で乳母のために扉を開けた。
栄香は控えの間、客間、寝所、そのほかにもいくつかの部屋を持っていたが、栄香の所有する部屋には、品の良い調度品が程度に配置されており、心地の良い空間が広がっている。
乳母は控えの間、客間を通り抜け、栄香の休む部屋に入ろうと、扉を静かに開けた。
すると乳母は薄暗い部屋に、国王がいることに気づいた。
乳母はこんな遅くになぜ国王がいるのかと不思議に思っていると、国王はいきなり寝台に横たわっている栄香に覆い被さった。
国王が秘密の回廊を使って栄香の部屋に忍び込み、襲いかかろうとしていたのだ。
乳母はあまりにもおぞましい光景に声もあげられない。
乳母は栄香を守らねばと、咄嗟に自分ができる最善のことをした。
乳母は勢いよく部屋の扉を開け、大声で叫んだのだ。
「誰か!誰か!不届き者が!栄香様の部屋に‼︎誰か‼︎」
乳母は控えの間の扉を開け、あえて国王のことは言わず、不届き者が栄香の部屋に侵入したように思わせた。
たとえ国王が自分の娘にしようとしたことが鬼畜の所業であったとしても、国王を取り押さえることなどできるわけがないのだ。
そしてこの事実を知ったところで、力を持たない者たちは権力で押さえつけられるか、懐柔されるか、あるいは消されるか、いづれの道しか与えられないのだ。
だからこそ、乳母は不届き者がいると叫んだのだ。
侵入者がいるとあらば、護衛の者たちは、その使命を果たすべく部屋に入って栄香を守ろうとするからだ。
国王に対する、非力な乳母の精一杯の抵抗であった。
護衛の者が栄香の部屋に入った時、不届き者と言われた国王は、すでに秘密の回廊に通じる扉を開け、部屋から逃げたところであった。
「栄香様、お怪我はございませんか?」
護衛の一人が栄香の元に駆け寄り、問いかける。
どうやら今宵は乳母の甥にあたる武官は非番のようで、この場に姿はなかった。
「大丈夫よ……。ありがとう」
護衛の者たちが部屋に入ってくる間の刹那に、乳母は何も言わずに栄香の身だしなみを整えたため、栄香は護衛たちの前で乱れた姿を見られることはなかった。
さらに乳母は栄香の部屋の窓を一つ開けておいた。
不届き者がその窓から入ってきて、そしてまた、そこから出ていったと説明するためだった。
護衛の者たちは乳母の言葉を信じてくまなく探すも、結局誰も見つけることはできなかった。
先ほど栄香に声をかけた護衛が栄香に状況を説明し、不手際に対し謝罪する。
後継者の部屋に簡単に人を侵入するなど万死に値する失態であったが、栄香は警備の強化を指示したにとどめ、警護の不手際に触れることはなかった。
その後すぐに国王夫妻にも伝わると、王妃は驚愕のあまり気を失った。
国王は自分のことを不届き物と言われ心ならず不快感を覚えたが、まさかそれは自分だとは言うこともできるわけもなく、栄香と同じく警備の強化を指示しただけで、護衛の者たちを罰することもなかった。
護衛の者たちが栄香の部屋を辞すると、栄香の寝室には栄香と乳母の二人だけになった。
乳母は冷めた煎じ薬を差し出し、栄香にそれとなく問いただすと、栄香は泣き崩れてことの真相を話し始めた。
話を聞いていた乳母はみるみるうちに全ての血を吸い取られたかのように顔面蒼白になる。
「栄香様!あぁ、栄香様‼︎なんということでしょう!私がそばにいながら……、私がそばについておりながら……。あなた様をお守りすることができませんでした……。おかわいそうに……。おかわいそうに……。まさかこんなことになっていようとは!ずっとお一人で苦しんでいらっしゃったのですね。ずっと……」
乳母はその場に泣き崩れ、ひれ伏して栄香に許しを乞う。
「あぁ……どうか、どうか私を罰してください‼︎ 心を尽くしてお仕えしてきましたのに……。心を尽くしてまいりましたのに……。あなた様をお守りすることができなかった!あぁ、どうかこの私を罰してください‼︎」
栄香は半狂乱になって自分に縋りつく乳母を見て、心の底から乳母を気の毒に思った。
乳母は厳しくも優しい、愛情に溢れる女性であった。
乳母の言う通り、誰よりも心を砕いて仕えてくれた。
二人は王女と乳母という身分の違いはあっても、その立場を超えた強い情と信頼で結ばれていた。
その乳母を悲しませてしまったことに、栄香は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
だが、このことは誰にも言えることではなかった。
誰にも言いたくはなかった。
言えるはずもなかった。
できれば知られたくもなかった。
栄香はいままで恐怖と恥辱から誰にもこのことを言えずにいたが、この時ばかりは子供のように泣きじゃくり、この涙ですべてを洗い流せればと切に願った。
この夜の出来事から警護が強化され、乳母や侍女たちも栄香を守るべく、常に近くに控えるようになった。
乳母の指示で秘密の回廊に続く扉も閉ざされた。
それに対して知ってか知らずか、国王はそれについて言及することはなく、それ以降栄香の部屋に行くこともなくなった。
栄香は安心して夜を迎えられると、心の底から安堵した。
だが災いとやらは栄香をいたく気に入ったのだろう。
栄香を逃さないと決めたようだ。
次に栄香に降りかかった災難は、後々に繋がる新たな火種となった。
栄香は国王の子を宿したのである。
それはまるで蛇が獲物をじりじりと締め上げるように、栄香を苦しめた。
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