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第十話 角
清蓮の足の親指は初めから傷などなかったかのように元どおりになっていたが、光聖がしばし口に含んでいたために、きめの整った白肌の足先だけが恥じらう乙女の頬のように、うっすらと赤みを帯びていた。
光聖はぐったりとして身動きできずにいる清蓮を長椅子の上に横たわらせた。
光聖は跪いた姿勢のまま「清蓮」と控えめに声をかけると、清蓮の「うん……」と弱々しい声が返ってきた。
清蓮はまだ恍惚の余韻冷めやらず、どこかぼんやりとして、心ここに在らずといった体だ。
光聖はもう一度清蓮に声をかけるが、その声はわずかに震えているようにも聞こえた。
「清蓮……。君があんなことをするから……」
光聖はそれ以上は言い淀んで口を閉ざしてしまった。
私が……?
なにをしたというのだ……
清蓮はわずかに弾む呼吸を整え、光聖に言葉を投げかける。
「私が、なにをしたと言うんだ……。君になにをすると、こうなるんだ?」
清蓮は傷を治してもらうたびに、感謝と同じくらい申し訳ない気持ちになる。
なぜなら光聖の献身ともいうべきその行為は、必ず自らの体にその傷を刻むことになるからだ。
たとえその傷が消えてなくなるとしても、それが一瞬であったとしても、光聖はその傷の痛みを清蓮の代わりに引き受けるということなのだ。
だからこそ今回、光聖が執拗に足の指を舐め回したことについて解せないでいるのだ。
なぜあそこまでするのか?
あんなに……、私の指を、足の指を口に含んで……
清蓮は光聖のうっとりとした表情を思い出しただけで、また心も体も熱くなり、なんとも言えない気持ちになってしまう。
光聖はそんな清蓮の瞳をまっすぐ見つめると、思いもよらない言葉を発した。
「君は……。君は触れてはいけないものに触れたのだ……」
「触れた?私が?なにを……?」
清蓮は光聖の視線から目を逸らすと天井を見上げ、ここに至る一連の出来事を順に思い返してみた。
「私が君に触れたのは、確か君が白鹿になった時。頬ずりしながら抱きしめた。そのことを言っているのかい?」
「違う」
清蓮は細く美しい指で軽く顎を摘み、軽く首を傾げた。
それ以外に触れたのは……
「あぁ、そういえば角に触ったな。とてつもなく大きくて、立派な……」
清蓮は天に向かって幾重にも伸びた、威風堂々とした角に触れた時のことを思い出した。
「そういえば、私が君の角に触れた時、君は嫌そうな素振りを見せたね」
清蓮はひらめいたとばかりに両手を軽く叩くと、横を向いて跪いている光聖を見た。
「そうか!角だ!君の角に触れてはいけなかったんだね!そうだろう?もしそうなら、ごめん。あんなに大きくて、立派な角は見たことがなかったから……、つい触れてみたくなって……」
「うん……」
光聖は立ち上がると清蓮をじっと見つめるが、どことなく困ったような表情を見せた。
清蓮は光聖がそんな顔をするなんて初めてだと思った。
なんでもお見通しで、落ち着いた物腰の光聖。
それが清蓮が知っている光聖だ。それに比べると、目の前にいる光聖はいつもと少し違う。
「私の角は……、あれは……象徴だ。神の威厳を表すものであり、同時に……、人間で言うところの……。その……、あれでもある」
「象徴……。威厳……。人間の……あれ⁈」
「うん……」
光聖は平静を装っているが、どこかぎごちない。
「あれって……。ん?あっ!えっ?まさか……!そんなことって!」
清蓮は勢いよく身を起こし、光聖の襟ぐりを掴んで軽く揺さぶった。
「あぁ、なんてことだ!私は知らない!知らなかったんだ!大きくて、とても大きくて、立派な角だと思ったんだ!ただ触ってみたくなっただけなんだ!決して他意はなかった!知ってたらそんなことしない!信じて光聖‼︎許して……」
混乱を極めた清蓮は、現実を受け入れることができないばかりか、極度の興奮で意識を失ってしまった。
光聖は長椅子に吸い寄せられるように倒れ込む清蓮をすぐさま支えると、そのまま両腕に抱き抱え、立ち上がった。
光聖は意識を失った清蓮を人知れず抱きしめた後、重いため息を一つつくと、清蓮を抱いたまま東屋をあとにした。
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