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第8話 海馬

 二階堂と一之瀬は、バーカウンターに並んで座った。別に仲がいい訳では無い。職員の木村に追い出されたのはどちらも同じだ。  アルコールではなく、二人ともコーヒーを頼んで、ブラックで飲む。 「高校の時の仕返しか?」 「それは、こっちのセリフですよ」  一之瀬が軽く二階堂を睨んだ。 「へぇ、じゃあ、あの噂は本当ってことなのか?」  揶揄するように二階堂が言うと、一之瀬の目付きがさらに鋭くなる。 「知っていて誘ったんですか?」 「話を聞いて、確信を持って近づいたのは確かだ。放置していたのはお前の落ち度だ」 「強引に進めたくなかったんですよ」  一之瀬は自分を落ち着かせるために、コーヒーを一口飲んだ。 「さっさと手を出せば良かったんだよ。アルファのフェロモンを嗅ぎ分けられるベータなんて、おかしいだろうが」 「確証もなしに行動に移すほど馬鹿なことは無いでしょう」 「それで、何年も待って、こんな状況なわけだ」 「まさか、あなたが邪魔するなんて思わなかった」 「そりゃするだろう?しないわけが無い」 「高校の時の仕返しをしてるのは、あなたの方でしょう」 「せっかく、初めてを頂けると思ったのにな」 「そんなことになっていたら、間違いなく殺す」 「あー、怖い怖い。やだねぇ、自分のヘタレを棚に上げて」  二階堂は、残りのコーヒーを飲み干した。 「じゃあ、せいぜい頑張れよ。お前の匂い、怖いらしいからな」  そう言って、二階堂は帰って行った。  一之瀬は、黙って立っている木村に目を向ける。 「話がしたい」 「ここではなく、施設でよろしいですか?」 「分かった」  ───────  高校に入学して、生徒が学校にも慣れた頃、一年のクラスがある廊下でアルファ同士が諍いを起こしていた。原因は三年生のオメガの生徒が、一年生の一之瀬に、ヒートの相手を頼みに来たからだった。  名家の一之瀬は、狙われているのが分かっていた。  若さゆえの間違いを期待しての頼み事だ。  廊下で話すようなことではなかったのに、手短に済ませようとしたのがいけなかったのか、その話に割り込んできたアルファがいた。  三年生の二階堂だった。  オメガの生徒は、去年までは二階堂にヒートの相手をお願いしていたのだ。名家を両天秤にかけるようなことをして、タダで済まされるはずがないのに、迂闊にもこの生徒は、ギャラリーの多い廊下で話をしてしまった。  一之瀬が躊躇していると、二階堂が威圧を込めたフェロモンを放ってきた。  二階堂がフェロモンを当てたのは、一之瀬にではなく、名家を両天秤にかけようとした生徒にだ。プライドを傷付けられるような真似をされたとあって、二階堂は小声で一之瀬に警告してきた。  それを聞いた一之瀬も、威圧を込めたフェロモンを発する。  傍から見れば、オメガの生徒を挟んでの、アルファ同士の諍いに見えただろう。だが、実際は名家を侮るような行動を起こした生徒に対しての制裁にも匹敵するアルファの威圧。  まともに受けた生徒は、その場に崩れ落ちるように倒れたのだった。しかも困ったことに、その廊下に面しているクラスのベータである生徒が、全員倒れてしまったのだ。  上級のアルファが放つ威圧のフェロモンは、ベータでしかも未成年の体には強すぎたらしい。吐き気と目眩に苛まれたベータの生徒たちは、二階堂と一之瀬両家が責任をもって各自宅へと送り届けることになった。  翌日、たった一人だけ休んだ生徒がいた。  それが菊地和真である。  たった一人欠席をした菊池の席を、ベータの生徒たちはチラチラと見る。けれど、誰も何も言うことは無い。昨日の一件は名家からの謝罪を持って、片付けられたからだ。だから、菊地の欠席について、口にすることが躊躇われた。  同じクラスにいる一之瀬が、朝に一度だけ、菊地の席に目線を送ったのを誰もがみていた。けれど、誰も何も言わない。出欠をとる際も、教師は菊地の名前を呼ばなかった。  誰も何も詮索しないまま、その日の授業が滞りなく終わった。下校時間が来て、一之瀬はいつも通り迎えの車に乗り込み帰宅した。車の中でするメールチェックは既に慣れた。しかし、帰宅してから本格的に取り掛かった時、家の中が慌ただしくなった。 「それで、菊地和真と言う生徒が欠席したのは本当か?」  いつもと違い、随分と早い帰宅をした父親が、わざわざ息子の部屋を訪ねてきた。昨日の事件は当日中に処理されて、不満を漏らす家庭などなかった。  どんなことがあったにせよ、名家である一之瀬家と二階堂家から謝罪と見舞金をもって息子が帰宅してきたのだ。もちろん、車で送られて。  保護者は学校からの一報で、大慌てで自宅で待機をする程だった。名家の子息のアルファが通うほどの学校であれば、通うベータも、ベータの家庭ではそれなりの家柄の子息となる。当然親もそれなりの会社に勤めているわけで、事情を話せばすぐに早退の手続きがなされたというものだ。  場合によってはタクシーで、帰宅を促された者もいたほどだ。どうあれ会社は何かしら名家のグループ企業と関わりがあるものだ。  出迎えるにあたって、例え名家の代理人である使用人レベルの訪問であっても、両親揃って出迎えるようにと、会社からの指示でそうなった。  だから、一之瀬の父親は倒れた全てのベータ家庭について報告を受けていた。 「菊地は、一番状態がよくありませんでしたから」  一之瀬は小さくため息をついた。そんなことをわざわざ聞きに来なくとも、報告がいっているのだろう。いや、報告が来たからわざわざ確認に来たのか。 「腹痛を訴えているそうだな」  ニヤニヤと笑う父親がなんとなく嫌だった。 「ええ、そうですね。けれど、病院へは行っていませんよ」  一之瀬がそう答えれば父親は、封筒を突きつけてきた。 「読んでおけ」 「はい」  封筒を受け取ると、父親はさっさと息子である一之瀬に背を向ける。そうして、せっかく早く帰宅したはずなのに、また出かけてしまった。  一之瀬は受け取った封筒を机の上で開封する。  中身は調査書だった。  菊地和真についての調査書。  名家の力を使うと、一日でここまでの資料が揃うものなのかと一之瀬は関心した。けれど、中身を読んだら如何なものかと悩んでしまう。  父親は、菊地和真の産まれてからの医療機関のカルテのコピーを持ってきたのだ。その他は、簡単な菊地の家の家族構成など。  菊地の家は、完全にベータ家系だった。アルファやオメガは今現在の親戚関係には一人も存在していなかった。  そうして、菊地和真のカルテを読めば、気になる点があった。生まれた時からのフェロモンの数値だ。出生時、三歳時、七歳時、そして第三次性の集団検診。どの結果もベータと記載されてはいるものの、常にオメガの数値がゼロではなかった。ただ、オメガと判定するには数値が足りない。判定基準の10パーセントにも満たない数値だ。  だからベータと判定されている。  ベータの家系であるから、担当医師も気にもとめなかったのだろう。これが名家の子どもなら、再検査をしてMRIでもしているところだ。  こんな犯罪紛いの資料を渡されて、一之瀬は悩んだ。もちろん、父親があれで意外とロマンチストだということぐらい、知っている。運命に憧れて、名家の子息だけが通うような学園をさけ、一般家庭の子どもも通うような学校を選んだほどだ。もちろん、一之瀬もそれにならって今の高校に通っている。  ロマンチストな父親は、菊地和真が気になるようだ。もちろん、それは一之瀬も同じである。  明日登校してきたら、バレないように項の匂いを嗅ぎたいところだ。  一之瀬は、資料を封筒にしまうと、明日の予習ではなく、後転性のバースについて検索を始めた。菊地和真の数値が気になって仕方が無い。  目覚めさせる方法について、検索を開始した。

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