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第9話 想起

 次の日、菊地和真は登校してきたけれど、席が大きく変えられた。菊地は窓際の端に移動してしまったのだ。一人被害が大きかったからなのか、廊下から随分と離れた。  廊下を見るのが嫌になったのかと思えば、そうでは無いのだと担任から聞かされた。一応本人の希望を叶える形を取ったらしい。  一之瀬としては理由を聞きたいし、一人辛い思いをさせてしまったことを謝りたい。そっと接触をしようと試みたが、菊地は随分と警戒しているようで、一之瀬が近づく前に姿を隠す。  これでは項の匂いを嗅ぐこともできない。  それとなく接触を試みながら、菊地との距離を測るけれど、菊地に完全に警戒されている。オマケに、教師たちからは、菊地に近寄らないでやってくれと言われる始末だ。  今日も菊地は一人マスクをつけている。インフルエンザの季節でもないのに、一人だけマスクをしているのは正直目立つ。オマケに体育の時も外さない。  体育の授業でバスケットをした時、一之瀬はそれとなく菊地の背後にまわった。汗をかくと、フェロモンが出やすくなるものだ。身長差もあるため、一之瀬は難なく菊地の背後に回り込み、菊地の匂いを嗅いでみた。  ベータであれば、単に汗の匂いしかしないだろう。何しろ、普通の男子高校生だ。体育の授業程度で念入りに制汗剤など使うことも無い。せいぜい石鹸か柔軟剤の匂いがする程度だろう。  けれど、菊地の背後で項の辺りの匂いを嗅いで、一之瀬は思わず動きが止まった。微かに、甘い香りがしたのだ。柔軟剤の匂いだと言われればそれまで程度の、微量な香りだった。  体育の授業が終わり、着替えの時、もう一度確認しようとした時、菊地は既に更衣室にいなかった。仕方がなく教室に戻ってみても、菊地はいない。授業開始のギリギリになって、菊地が教室に戻ってきた。しかもしっかりと一之瀬の席を避けていた。  菊地からの微かな匂いが気になった一之瀬は、その日のうちに父親に相談を持ちかけた。  意外とロマンチストな父親は、菊地に興味を持ってくれた。CTがダメならレントゲンでも撮影したものがあれば良かった。と父親は言うが、健康体なベータの男子では、そうそうそんな機会があるわけは無い。  健康診断で撮影されるのは肺であり、それ以外の箇所は撮影対象外だ。しかも、集団検診では入学時の春先に行われるだけ。検査に引っかからなければ再診なんてない。 「腹の映像が欲しいところだ」  父親が笑いながら言うのを、一之瀬はしっかりと聞いた。後天性であれば、小さくても画像にオメガの子宮が写っているはずだ。だが、それを写そうとすれば、完全に腹を撮影しなくてはならない。学校の集団検診では、腹は触診でおしまいだ。特にベータであれば、触診さえしないこともある。 「今回の件で受診をさせることは難しいでしょうか?」  一之瀬は聞いてみたが、父親は首を左右に振った。入院するほどならまだしも、全員学校に登校してきている。健康体なベータを無理やり診察は出来ない。 「では、監視をつけることは許して貰えますか?」  一之瀬がそういうと、父親は、首を縦に振った。 「お前の学年には、ちょうどいいのがいるだろう?好きに使いなさい」  父親に言われて、一之瀬は該当の人物を思い出した。あの事件にもしっかりと巻き込まれていたベータの生徒だ。  ───────  欠伸を噛み殺しながら、男子生徒がバスの一番後ろの席に座っていた。いつもより早起きをしたせいで眠くて仕方がない。  ようやく高校生活のサイクルに慣れてきたところで、突然の変更を余儀なくされて、だいぶイラついていた。だが、そんなことは少しでも表に出すわけにはいかない。  ターゲットは、八時頃に校門付近のバス停に停るバスを使って通学している。彼を毎日監視する役を仰せつかったのは昨夜だ。風呂に入ってそろそろ寝ようかと思っていた時に、父親の書斎に呼び出された。父親の仕える一之瀬家からの直々の指名だった。元々は、同学年でもある一之瀬匡に顔をおぼえてもらうためと、研修を兼ねて同じ学校に進学したのだった。  それが、件の事件で状況が変わった。  まだ正式に顔見せをしていないのに、父親が一之瀬家に仕える家令であるがために、仕事を与えられたのだ。 「昌也、一之瀬匡様の運命かもしれないお方だ。心しなさい」  そんなことを言われても、あの件で自分はわざと倒れたのだ。演技をして他の生徒と一緒に手当を受けた。それは父より褒められた。  倒れた時点で、すぐに父親に連絡を入れたのも良かった。教室の中で倒れた生徒の人数も正確に伝えられた。まだ見習いでもないが、よく出来た。  それが、いきなりの業務命令ときたものだ。 「菊地和真、かぁ」  もちろん知っている。  同じクラスだし、おなじベータだ。次のバス停で乗ってくるはずだ。窓からバス停を確認すると、同じ制服を着て、マスクをした生徒が立っていた。  定期をかざして乗ってくると、目的の彼である菊地和真は、出口近くの1人がけの席に座った。カバンを膝に抱え、俯きがちなのか項が見える。私鉄の駅を出たバスなので、乗客はどんどん減っていく。  学校の校門付近のバス停に着いた時、降りるのは菊地と自分以外に数名の生徒がいた。私鉄経由でバスに乗って来たのは、全てベータの生徒だった。昌也は菊地と少し離れて校門をくぐったが、下駄箱でさりげなく声をかけた。 「おはよう」  名前の順ではそんなに離れていないため、下駄箱は同じ並びだった。菊地が上履きを履くのをみて、自分の下駄箱に手をかける。 「おはよう…あ、ごめん」  昌也が、手をかけた場所をみて、菊地が慌てて一歩下がった。 「同じバスだったから」  昌也が人の良さそうな笑顔を向けると、菊地が驚いた顔をした。 「そうなんだ」 「俺、一番後ろで寝てるから、今朝知った」 「俺、前の方に座るから気が付かなかった」  そんな話をしながら教室に向かう。菊地は自分の席にカバンを置いて、すぐに教室を後にした。事前に知らされていたし、もちろん知っていた。菊地は本鈴がなるギリギリまで教室にいない。  バレないようにそっと後をつければ、菊地は非常階段の踊り場に座り込み、本を読んでいた。学校の図書館のものだとすぐにわかったのは、本の裏表紙に管理番号とバーコードがついていたから。咄嗟にそれを確認したのは、自分が仕事モードに入っている証拠だった。  昌也は菊地にバレないように、その場をそっと離れた。とりあえず、朝に菊地がどこにいるのかを把握した。おそらく、授業の合間の休み時間もここにいるのだろう。教室からたいして離れていないので、ギリギリまで隠れているのにちょうどいい。次は昼休みにどこにいるのかだ。  図書館の本を読んでいるのだから、昼休みに行っている確率は高い。そうなると、どこで昼食を取っているかだ。食堂を利用している様子はない。図書館は飲食禁止である。  あの事件が起きて、ベータの生徒はなんとなくアルファの生徒を避ける傾向が出ていた。自分からアルファの生徒に話しかけることはしない。もとより、このクラスにはあの一之瀬匡がいる。他のアルファの生徒でさえ、一之瀬匡には声をかけることはしない。  なんとなく、ベータの生徒がクラスの端に集まっている構図にはなっていた。  食堂で弁当を食べる者もいなくはない。しかし、菊地の姿は見当たらない。初夏の陽気の日もあるが、肌寒い日もあり、梅雨の走りの日も多い。そんな不安定な天気が多ければ、大抵は室内で弁当を食べるものなのだが、菊地が見当たらない。  昼休みになり、静かにカバンを持って教室を出る菊地の後を、昌也は黙ってついて行った。なんとなくベータが集まっているだけなので、食堂に誘われたのを片手を上げて断る。  その行動は、一之瀬に対するアピールでもある。  昌也が教室を出る姿は、しっかりと一之瀬の目に入っていた。  菊地の後をついて行くと、意外なことに菊地は真っ直ぐ図書館に向かっていた。図書館は飲食禁止であるから、もしかすると菊地は昼食を抜いているのかもしれない。  育ち盛りの昌也からしたら、昼食を抜くなんて有り得なかった。けれど、オメガならそれもある。奥底にある本能で、アルファに愛されるために美しくあろうとすれば、知らず食事量を制限してしまうかもしれない。  菊地が図書館に入ると、そのままカウンターへと近づいた。そして、カウンターに座る人物を見て、昌也は咄嗟に身を隠した。  三ノ輪由希斗、オメガの一年生だ。  オメガであるからクラスが違う。だが、名家の子息であるから名前と顔は知っていた。オメガらしく首にネックガードをつけていて、男子高校生にしては髪はやや長め、丁寧に手入れされているらしく艶があるのが遠目からでもよく分かる。  菊地と一緒に三ノ輪がカウンターを離れた。なにか会話を交わしているのを聞き耳立てれば、たわいのない挨拶と昼食のことだった。  一緒に食べるのかと思ったら、そうではない。三ノ輪は特別閲覧室の鍵を開けて、そこに菊地を招き入れた。室内でなんの話しをしているのかは全く聞こえない。  特別閲覧室は、防音室になっていて、鍵もしっかりとした作りになっている。使用できるのは基本オメガの生徒と生徒会役員だったはずだ。  三ノ輪が自分の持つ権限を利用しているのは分かった。ただ、何故それをしているのかということだ。  昌也は、特別閲覧室から三ノ輪が出てくるのを待った。  割とすぐ三ノ輪は出てきた。  そうして、昌也の顔を見るとにっこりと微笑んだ。昌也に気がついていたようだ。しかし、三ノ輪は何も喋らず、真っ直ぐにカウンターへと戻る。 「一之瀬様のところの忠犬だよね?」  カウンターの椅子に座るなり、三ノ輪は口を開いた。当たってはいるが、言い方ぐらいあるだろう。  けれども、三ノ輪は悪気なんて何も無いというように昌也に微笑みかけた。 「菊地くんの担当になったのかな?」  柔らかく微笑んで、小首を傾げる姿はなんとも愛らしい。けれど、昌也はそれに絆される立場ではなかった。 「随分と早いことで」  昌也が指名されたのは昨夜のことだ。 「そんなの、見れば分かるよ。島野は一之瀬家に仕えているんだから、同学年に子どもがいれば必然的に付き従うでしょ?それで、あれだけのことが有れば…動くよね?」  どこまで分かってのことなのか、昌也には測れなかった。あちらは名家のオメガである。ベータとしては優秀なだけの昌也とは、格が違う。 「安心していいよ。僕の権限で特別閲覧室にいてもらってるんだから。困っている人を助けるのは当たり前だよね?」  笑ってはいるけれど、その微笑みをそのままうけとるわけにはいかない。 「菊地……くん?と呼べば怪しまれないか?彼のことを、どこまで?」  昌也は三ノ輪に探りを入れるしか無かった。まだ、始めたばかりで勝手が分からないのもある。一般生徒ならまだしも、相手は名家の三ノ輪だ。 「うん?菊地くんね、別に一之瀬家に貸しを作るつもりは無いんだよ。ただ、僕としては無自覚な彼を守って上げなくちゃいけないわけだ。そうだよね?」 「ありがたい限りで」  昌也がそう答えると、三ノ輪は微笑んだ。 「僕はオメガだから、本当に微かにしか彼からは嗅ぎ取れないんだけど…匡様ならもう少し、感じられてるんじゃないかな?」  なるほど、三ノ輪は分かっているようだ。 「心配しなくていいよ。あそこの鍵の管理は僕がしている。卒業までは僕が責任者だから……ふふっ、卒業迄に終わるといいね?」  三ノ輪は、イタズラをけしかけるような笑みを浮かべて昌也を見た。 「ところで、君のお昼は?僕はここで食べてるんだ。お茶ぐらいなら出してあげるけど?」 「………見ての通り、手ぶらだ」  ここでようやく昌也は、自分が失敗していることに気がついた。菊地はカバンを持っていた。つまり、中に弁当が入っていたということだ。昼休みの菊地を監視するというのに、手ぶらであとを付けるなんて、基本がなっていなかった。 「じゃあ、今日はお茶だけで我慢する?」  三ノ輪の誘いは有効だった。菊地が特別閲覧室で弁当を食べているからと言って、離れる訳には行かない。読んでいる本を返却に出てくるかもしれない。その時に、昌也の知らない生徒と関わりがあったら?三ノ輪は教えてくれるだろうけれど、初日からそれでは仕事になってはいない。 「お世話になります」  昌也は素直に三ノ輪に頭を下げた。  明日からはどうするか、それが問題だった。  帰宅する際、昌也は菊地に合わせてバスに乗るため様子を伺っていた。部活に入っていない菊地は、静かに教室を出て、一人静かにバス停に立っていた。  次のバスまでまだ、時間がある。毎日バスに乗っている事になっていれば、時間が十分あることは分かっているはずだ。  昌也は、時刻表をスマホで確認しながらバス停に近づいた。本を読んでいる菊地にはバレていない。朝に一緒になった生徒は、誰もバス停にいなかった。  横断歩道を渡りながら、菊地を確認する。複数あるバス停で、菊地は間違いなく私鉄の駅行の前に立っていた。寄り道せずに帰宅するのだろう。弁当箱を持ったまま寄り道はしないと昌也は思った。  菊地の視界に入らないように、バス停の傍ではなく、壁際に立ってスマホで時刻を確認する。  時間がまだあるので、書きかけの報告書の続きを書く。父親に報告するためだ。乗るバスの時刻と行き先を書き込んだところでバスが来た。  菊地が定期をかざして乗り込むのに、やや遅れて続く。乗り込むのは菊地と昌也の二人だけだった。菊地は朝とおなじ席に座ると、すぐに手にしていた本を読み始めたので、昌也には気づかなかったらしい。  昌也は菊地の隣を通る際、読んでいる本のタイトルを確認した。最近文学賞をとった作品だった。図書館の入口に話題の本とか言って、たくさん並んでいたのを思い出す。明日も読んでいたら、話題の本だから話しかけるきっかけになりそうだ。  菊地は自宅近くのバス停で降りた。さすがに、菊地しか降りなかったバス停で、昌也が、降りるわけにはいかず昌也は菊地を目で追う。菊地は真っ直ぐ自宅のある住宅街に進んで行った。その後をゆっくりと歩く男がいた。一見学生風に見えるけれど、歩き方が違った。聞いてはいなかったけれど、まちがいないだろう。昌也はスマホのカメラで可能な限りその男をズームでおって撮影した。  そうして、バスの中で父親に報告するメールを書き上げる。もちろん写真も添付した。  帰宅して、父親からなんと言われるのか、それが気がかりだった。

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