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第11話 追憶

市民プールなので、清掃もバイトの仕事だった。  夏休み前の土曜日、朝から昌也は市民プールで清掃をしていた。もちろん、菊地も一緒である。プールサイドをデッキブラシで擦って水をかける。バイトはベータの学生しかいなかった。  午前中に洗ったプールサイドは、昼食を食べているうちに乾いて、午後は全員で防水のペンキを塗る。水色の塗料を塗り広めていくと、鮮やかな色彩が眩しくて、そこだけもう夏休みが始まっているようだった。  設備の点検を、業者の人がやっていて、明日は朝から水を入れると言われたら、全員が歓声をあげて喜だ。  点検を兼ねて泳げるらしい。水着を持ってくるように言われたので、昌也はその事をきちんと一之瀬に報告した。  もちろん、今日のバイトで来ていた不織布のつなぎ姿の菊地の写真も送っておいた。下は半袖のTシャツにハーフパンツだったので、その格好でお弁当を食べている姿も写真におさめた。  初バイトとか言って、記念写真を撮りまくった。だから、菊地はなんの疑問も持たずに沢山写真に撮られてくれた。  次の日も晴天で朝から暑かった。もう、夏休みでもいいくらいだった。  職員の人たちが、既に来ていて、朝からプールに水をはっていた。昌也たちはウォータースライダー用のボートに空気を入れて穴が空いていないかチェックをしていた。二人乗りのボートは大きくて、なかなか大変な作業だ。貸し出し用の浮き輪やビート板の点検など、道具をどんどん倉庫から出していく。薄くなっている番号を上からなぞるようにマジックで書き足したり、なかなか地味な作業をしていると、スーツの集団がプールサイドに現れた。  市長と市議会議員に職員がプールの設備について説明をしているようで、この暑い中ジャケットを着ているのはつらそうだった。 「うん?」  昌也はその集団に、明らかにオーラの違う人物がいることに気がついた。  一之瀬蘇芳だ。  隣には秘書がいて、職員の説明をメモしている。  もちろん、一之瀬蘇芳に対しては市長が自らが説明をしている有様だ。  一瞬、どうしてこんなところに?と昌也は思ったが、すぐに理解した。昌也の報告書は、父親を通して一之瀬蘇芳にも届いている。それを見て、今日この市民プールで視察がある事を知ってすぐに自らも行動したのだ。  そう、菊地和真を見に来たのだ。  昌也はポケットに入れて置いたスマホを素早く取りだして、SNSで一之瀬に連絡を入れた。一之瀬蘇芳が来ているから、下手に電話はかけられない。  バイトの学生たちは視察があることは知らされていたので、一度は視察の団体を見たものの、すぐに作業の続きを初めてしまった。 「誰か、上から滑ってきてくれないかな?」  点検をしていた業者の人から言われて、二人乗りと一人乗りのボートをもって学生たちが上がっていく。  市民プールの設備だから、ボートは自分で運ぶシステムだ。  下にいる職員が拡声器を使って指示を出す。 「一人乗りボートからね」  上にいるスタート担当の学生が手を上げた。  初滑りはジャンケンで決めていたから、揉めることなく最初の1人がボートに乗り込む。 「じゃあ、さーん、にー、いーち、スタート」  拡声器の合図に合わせて、上から一人乗りボートが押し出される。視察の人たちも見守る中、初滑りのボートは下まで降りてきて、着水と同時にひっくり返った。  ゴール担当の学生がすぐに転覆したボートを回収しすると、水の中から乗り手だった学生が浮上した。 「冷てぇ」  まだ入れたばかりの水はだいぶ冷たくて、全身ずぶ濡れになった学生はすぐにタオルを体にまきつけた。 「じゃあ、次は二人乗りね」  拡声器からの指示を聞いて、上の学生が手を上げる。 「さーん、にー、いーち、スタート」  二人乗りは、先程の一人乗りよりスピードがあった。水飛沫を上げて時々跳ねている。着水して転覆しなかったので、ゴール係の学生がすぐにボートをおさえた。支えられた状態で乗り手がゆっくりとボートから降りる。 「うわ、水冷たい」  そこまではしゃぐほどではないのか、ゆっくりと水から上がって、すぐにTシャツを着込んだ。日差しは熱いけど、水は冷たい。 「次は滑り台ねー」  拡声器の合図で、滑り台から学生が滑ってくる。着水すると、水しぶきを上げてしばらく水面を走って沈んだ。 「冷てー」  水から上がった途端に口にしたのは、やはりこれだった。テストの様子を市議会議員たちがデジカメで撮影していた。もちろん、一之瀬蘇芳の秘書もである。  菊地も昌也もジャンケンに負けたので、水に入ってすらいない。昌也たちは濡れたボートをプールサイドに並べて、次の作業のために移動しようとした。 「菊地くんと島野くんだよね?」  秘書が声をかけてきて、思わず立ち止まった。昌也は緊張のあまり唾を飲み込む。 「はい?なんでしょう?」  菊地が不思議そうにしながら秘書に返事をしていた。どうやら菊地は、一之瀬蘇芳が分からないようだ。 「少し、いいかな?」  そう言われて、菊地は他の学生をちらりと見る。前を歩く学生は、何も言わずに手を振った。それを確認すると、菊地は一歩秘書へと近づく。 「菊地和真くんと島野昌也くんだよね?私は一之瀬蘇芳の秘書をしている田中と申します」  丁寧に、頭を下げられて菊地は恐縮していた。 「この間は変なことに巻き込んでしまって、大変だったでしょう?今は何もないかな?体調に変化はない?こうしてアルバイトをしているということは、特に問題がないってことかな?」  田中はゆっくりと喋りながらも、菊地のことをしっかりと観察している。まだ日焼けしていない菊地の手足は白い。水に入っていないから、白いTシャツは透けてはいなかった。 「…はい、大丈夫です」  菊地は一瞬目を大きく見開いて、それからゆっくりと答えた。目線は田中ではなくその後ろの一之瀬蘇芳に向いていた。無意識に菊地の手がTシャツを握りしめている。裾ではなく、お腹の辺りだ。 「島野くんも特に変わりはないかな?」  田中の目線が自分に向いて、昌也は背筋が伸びた。 「はい、健康そのものです」  昌也が何ともなかったことは、報告済だ。状況の確認のためにその振りをしただけなのだから。けれど、田中が、そうするのなら昌也も、そうしなければならない。 「そう、それは良かった」  田中はゆっくりと菊地をみて、目線だけを昌也によこした。昌也は目線が合うと背中がゾワゾワとした。けれど、それを悟られまいと笑顔を浮かべる。  菊地はそんなやり取りには全く気づいていないようで、一之瀬蘇芳を見たまま動かない。Tシャツを握りしめる指先が、随分と白くなっていた。 「菊地くん」  不意に田中が菊地に声をかけた。菊地の肩がピクリと反応する。けれど、菊地は目線が田中には移動せず、一之瀬蘇芳を見たままだ。 「なにか体調に変かがあったら連絡をくださいね」  田中がTシャツを握りしめる菊地の手を上から掴んだ。そうされて、ようやく菊地は田中を見た。 「…はい」  田中を見てはいるが、菊地の反応はどこかあやふやだった。田中に掴まれた手に気づいていないようで、どこかぼんやりとしている。 「あ、あの俺たち、まだ作業がありますんで」  昌也が慌てて菊地の手を取る。昌也が少し強めに引くが、菊地は昌也の方を見てくれない。 「行こう、菊地」 「……えっ、あ」  菊地の手を握る手に力を込めると、ようやく菊地が反応した。 「アルバイト、頑張ってね」  田中が笑顔でそう言ったので、昌也と菊地は軽く頭を下げてその場を立ち去った。  市民プールの事務室に入ると、他のアルバイトの学生がホワイトボードの回りに集まっていた。 「仕事のローテーションだって」  誰かが教えてくれて、昌也はホワイトボードを見た。四人一組でチームを作ってローテーションで担当を代わるらしい。既にチームは決まっていて、菊地と昌也は大学生二人組と同じチームに名前が書かれていた。

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