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第19話 受諾

「うーん、ん」  菊地は体がだるかった。寝返りをうとうにも、腰が上手く動かない。 「ん?」  目をゆっくりと開けると、知らない室内だった。  随分と豪華な部屋だ。施設の自室とはだいぶ違う。 「起きたか?」  声のするほうを見ると、マグカップを口に当てている一之瀬がいた。 「え?なんで?」  思わず起き上がる。 「うっ…」  その途端、ものすごい違和感が全身を襲った。背中を寒いものが一気に走った。  顔色が、一気に無くなった菊地を見て、一之瀬が駆け寄った。 「どうした?」 「な、なんか、中に…」  下半身に何かがたれてきた。自分の体から出てきたどろりとした液体。少し生暖かい。 「薬が出ちゃったな」  一之瀬が菊地を寝かしつけた。 「薬?薬ってなに?」  慌てる菊地を他所に、一之瀬は薄い笑いを浮かべている。 「和真の、お腹が痛いの治す薬」  なんだそれは?そんな薬があるのか?  菊地の喉がなった。寝かしつけられて、自分の状態が理解出来た。それと、一之瀬との間に何があったのか。 「あ、うぁ、だめ」  菊地は跳ね起きてしなくてはならないことを思い出した。のに、一之瀬に肩を押さえられてそれが出来ない。 「大丈夫だよ。ヒートじゃないから」  一之瀬の言葉で確定した。菊地の胎内に、注がれた薬の正体。 「へ、変態かよ」  菊地がようやく言えたのはそんな言葉だった。 「変態は酷いな」  一之瀬は鼻で笑ったけれど、別段傷付いた様子もない。 「ヒートじゃないから、妊娠しないよ。子宮の入口、しっかりと閉じていた」 「へ?」  なぜそんなことが分かるのか。怖くて聞く気にならない。 「再就職希望なんだってな」  一之瀬がそう言うと、菊地は頷いた。 「俺のところに来い。再就職先も俺が手配する」  さっきまでと言葉の雰囲気が、違った。逆らえない何かの圧がある。 「わ、かった」  菊地はそう返事をすると、ゆっくりと瞼を閉じた。  ─────── 「なに、この高さ」  目が覚めて、近くの窓から外を見て菊地の感想である。  パジャマを着ているけれど、自分で着た訳では無い。毛足の長い絨毯を裸足で歩く。  喉が渇いているし、トイレにも行きたいと言う生理現象を解消するべく、菊地はドアを開けた。  ドアの向こうには、広いリビングがあった。ホームシアターみたいなテレビと、それに向かって設置されたL字型のソファー。その先にダイニングがあって、八人がけの大きなテーブルが設置されている。  しかし、どこにも誰の姿もない。  菊地はそのまま歩いて、適当に当たりをつけてドアを開けた。脱衣所のドアだった。その先には風呂場があった。 「違う」  菊地はドアを閉めて、その隣のドアを開けた。  今度は当たりで、洗面所の隣にトイレがあった。  一つ目の生理現象をこなすと、菊地は再びリビングに戻ってきた。 「書き置きとか、ないわけ?」  ソファーの前にあるテーブルにも、デカいダイニングテーブルにも、メモの1枚も置かれてはいなかった。  さすがに、一日中寝ているわけはない。  いくら初めてだったとはいえ、成人男性であるからには、そこまで体力がない訳では無いのだ。  ダイニングから、キッチンへと入ると、外国製の大きな冷蔵庫があった。製氷機も着いているそれは、いかにもブルジョワな家電である。一体化したようにコーヒーメーカーまで備わっている辺り、一之瀬の独身貴族め。と、しか思わなかった。 「とりあえず、水」  浄水器の機能までついているのは、流石である。  適当に、グラスをとって、水を注ぐ。冷たすぎない水で喉が潤った。  水が入ったからか、胃が動いてしまったようで、急にお腹が空いてきた。  最後に口にしたケーキから、随分と時間が経っている。 「食べ物、あるのか?」  冷蔵庫を漁ろうかとグラスを適当に置いた時、鏡のような扉に誰かが映った。  驚いて振り返ると、スーツを着た男性が立っていた。 「おはようございます。奥様」  一瞬、何を言われたのか理解できなかった。 「は?え?えぇ?」  菊地は自分で発した言葉に責任なんて取れなかった。この部屋に似つかわしくない声量だったとは思う。 「社長から伝言がございます」  菊地の反応を軽く流して、スーツの男性は話を続ける。 「はぁ」 「昼には戻るので、昼食は一緒にとろう。との事です」  言われて時計を探す。  しかし、初めての部屋だから、全く、見つけられない。 「只今の時刻は10時28分です」  スーツの男性が腕時計で確認しながら教えてくれた。 「じゃあ、コーヒー飲むわ」  菊地は目の前にいるスーツの男性がなんだか分からない。分からないけれど、社長とか、言っているのだから、おそらく一之瀬の部下なのだろう。 「わたくしがやりますので」  食器棚にアタリをつけて適当に、コーヒーを入れようとしたら、とめられた。  しばしスーツの男性を見つめてから、リビングへと歩き出す。菊地は、相変らす裸足のままだ。スリッパなんてはいていたのは実家にいた頃だけだ。  L字型のソファーに座って、リモコンで適当に番組を探す。どこの局もこの時間はワイドショー的なものばかりだ。高級スーパーの人気商品特集をしている番組を見ることにして、リモコンを置くと、スーツの男性が立っているのが視界の端に見えた。 「ブラックでお飲みになると聞いていましたが」  そう言って、テーブルにマグカップが置かれた。  このマグカップは、菊地がアパートで使っていたものだ。全て処分されたはずなのでは?  菊地がマグカップを見つめていると、スーツの男性が苦笑した。 「社長がこっそりと荷物を保管されたんです」 「こっそり?」  使い古していたマグカップは、漂白されたのだろう、随分と綺麗になっている。 「服はおそらくサイズがあわなくなっているでしょう」  そう言うスーツの男性の目線がひとつの扉に向いている。菊地はその目線の先を確認した。  出されたコーヒーを、一口飲むと、使い慣れたマグカップなのに、ものすごく香り高いコーヒーの味がした。インスタントとは全く違う。  さすがにコーヒーをもって歩くのは行儀が悪いので、菊地は手ぶらで目線の先にある扉に手をかけた。 「うわぁ」  感情のこもらない声を出す以外なかった。  扉の向こうには、菊地が住んでいたアパートの家具がそのままあった。 「さすがに食品は処分してあります」 「そうだろうね」  狭かったけれど、2DKだ。それなりに家具や家電があったのに、収まっている。 「なんなの、この部屋」  一之瀬のブルジョワが恨めしい。  パジャマのまま、スーツのジャケットを羽織ってみると、確かにサイズが合わない。  痩せたというか、体型が変わっている。 「なるほどな」  菊地は、施設で説明された時のように、淡々と目の前のことを受け入れた。 「昼飯って、どこで食べるのかな?」 「行きつけのフレンチレストランに予約が入っております」  直ぐに答えが返ってきて、菊地は驚いたものの、そのまま自分のタンスの中を確認する。 「着ていけるもの、なくね?」  予約が必要なレストランになんて、着て行けるような服など持ってはいない。そもそも、万能選手のスーツが全滅だ。 「こちらを」  スーツの男性が、紙袋を渡してきた。  いつの間に?  都内にある、老舗百貨店の紙袋だ。  多分、四ツ谷グループだと、思う。 「ありがと」  受け取ると、スーツの男性は部屋を出て扉を閉めた。 「着替えるかぁ」  全くこっそりでは無いこの部屋を見て、菊地は諦めた。  一之瀬の、執着が凄い。  そういえば、と思って、先程間違えて開けた脱衣所に行ってみる。いわゆるパウダールームになるのだろうか?棚を確認すると、あった。  菊地のお気に入りのワックスだ。高校生の頃から使っている。  髪型を整えると、手を洗ってリビングに戻った。  スーツの男性は、部屋の隅に立っていた。 「わたくしのことは気になさらないでください」  そうは言われても、と思いつつつけっぱなしのテレビをまだ観ることにした。  飲み残しのコーヒーが、入ったマグカップはそのまま置かれていた。もはや常温の水より冷たく感じるコーヒーを一気に飲み干して、無造作にマグカップを置く。  テレビの特集は、既に変わっていて、ドラマの見どころを話していた。ドラマなんて見ないよな、と思ってチャンネルを切り替えると、温泉地のランチ特集をしていたのて、それを見ることにした

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