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第20話 受容
別に、そこまで集中していたつもりは無いのだけれど、一之瀬が帰ってきていたことに気づかなかった。
無視したつもりは無いのに、捨て犬のような顔をしている一之瀬には驚いた。
「あー、うん、その…おかえり?」
菊地はなんと言っていいのか分からなかったので、とりあえず普通に言うなら、と言うことを口にしてみる。
途端、一之瀬が、わかりやすいぐらいに笑顔になった。
「その服、似合ってる」
見立てたのはお前だろう。と言ってやりたかったけど、めんどくさいのでやめておく。そもそも、いつの間に買ったのだろう?昨日の今日で買ったのだろうか?アルファの能力と、執着から考えると、昨日買ったと推測できる。
「ありがとう」
意味を色々込めて言っておく。
「行こうか?お腹空いてるだろ?」
当たり前だ。いったい、菊地が何時間食べていないと思っているのだろう?
玄関に行くと、菊地の靴が用意されていた。茶色の革靴は、今着ている服に合うと思う。まぁ、大抵のものにあうとは思う。
靴のサイズも分かっているとか、菊地の足が甲が高いことを知っているとか、若干引くが、口にはしない。
下まで降りると、車が停まっていて、国産高級車の助手席に座らされた。
「免許持ってるんだ」
運転する一之瀬を見ながら菊地が言うと、一瞬一之瀬が、驚いた顔をした。
「悪かったな、免許持ってないんだよ」
不貞腐れるようにそう言って、目線を窓の方へと向けると、一之瀬が、頭を撫でてきた。そんなことは、子ども相手にするもんだ。
「まぁ、和真が、運転することは今後ないからな」
いつの間にかに和真呼ばわりされて、今後のことまで決められている。文句のひとつも言いたいところだけど、一之瀬の匂いを嗅ぐとそんなことどうでもいいと思ってしまう。いつの間にかに、一之瀬の匂いが嫌では無くなっていた。
「なんか、納得いかないけど…特に意見もない」
菊地は一之瀬の手を払うと、ちゃんと運転しろと言って、とりあえず前を向いて座ることにした。
一之瀬の運転で着いたのは、外観の綺麗なフレンチレストランだった。店の前に車を停めると、もれなく店員がやってきて、車を移動させる。
一之瀬に手を取られて、店内に入ると、随分ときちんとした服装の人に案内された。ランチタイムなだけに、客層は女性が多いようだ。サラリーマンが平日のランチにフレンチレストランに来ることはまぁないだろう。
一之瀬が歩くと、女性客の目線が向けられるのがわかった。その目線と会わないように、菊地は仕方なく一之瀬のことを見ることにした。胸のポケットの辺りに視線を合わせれば、誰とも目線が、合わないだろうと思ったのに、何故か一之瀬が嬉しそうだ。
そうじゃない。と、いいたかったが、案内された個室で席に着く時に「奥様はこちらに」と言われてしまい、否定出来ないままになってしまった。
「なにか食べたいものはあるかな?」
ご機嫌な一之瀬が、菊地にメニュー表を見せてきた。フレンチレストランのメニューなんて、見たところでなんだか分からない。
「俺こういうの慣れてないから、一之瀬が決めてくれよ。とりあえず、腹は減ってるからさ」
菊地がそう言うと、一之瀬はまた、嬉しそうな顔をする。菊地の世話を焼くことがそんなに嬉しいのか、疑問しかないのに。一之瀬がメニューを見ながらあれこれ注文をしているのを、菊地はぼんやり眺めた。
料理の名前が、聞こえるけれど、菊地にはゲームに出てくる呪文のようにしか聞こえない。
出てきた料理はどれも美味しそうだった。そもそも、最初に出てきたサラダだって、随分と大きな皿にまるで絵画のように並べられて、絵の具みたいにドレッシングがかけられていた。それをフォークで食べるのだから、なんともめんどくさい。
一之瀬は炭酸水を飲んでいるけれど、菊地には普通のミネラルウォーターが出された。菊地が炭酸が苦手なことを一之瀬は知っていた。本当はあの合コンの時だって、生中なんて飲みたくはなかった。警戒して仕方なくみんなと同じものを飲んでいただけなのに。
「炭酸、苦手になった?」
炭酸水を飲む一之瀬を、苦々しい顔で見ていたのだろうか?そんなことを聞かれた。
「いや、元々苦手だよ」
「そうか」
随分とゆっくりと食事をしているけれど、社長と呼ばれる人は、時間に余裕があるのだろうか?
「この後、一緒に会社に行こうな」
突然言われて、驚いた顔で一之瀬を見る。
「再就職、したいんだよな?」
「あ、ああ」
慌てて返事をしたけれど、この服装で再就職?
一之瀬が着せてきたのだから、いいのかもしれない。
───────
「なに、これ?」
とにかく背の高いビルだった。
「下の方のフロアは貸し出している」
「はぁ」
やたらとたくさんあるエレベーター。止まる階が決まっているらしく、それを確認するだけで疲れそうだ。
「おいで」
エレベーターホールから、遠ざかるように一之瀬に連れていかれる。どうやら、社長は専用のエレベーターがあるらしい。
「おかえりなさい」
頭を下げてきたスーツの男性は、マンションにいた人だった。
菊地が驚いていると、スーツの男性が優しく笑った。
「申し遅れました。わたくし秘書の田中です」
「秘書」
菊地が、驚いていると、そのままエレベーターの中に手を引かれた。
「社長は俺」
そんなことは言われなくても分かっている。それなのに、一之瀬はやたらと菊地にアピールしてくるのだ。
エレベーターの扉の開け閉めは、田中がしてくれて、案内されるままに菊地は一之瀬の会社の中を歩く。
ちょっとした、応接室のような部屋に入ると、資料を持った女性がパタパタとやってきた。
「こんにちは、菊池和真さん?」
「はい」
返事をすると、座るように言われたので素直に椅子に座る。
「オメガ枠での採用になりますね」
そう言って、資料が菊池の前に広げられる。
主に入力作業の仕事らしい。前の仕事に似ているといえば似ているかもしれないが、パソコンを使った入力作業なんて、そんなものだと思うだけだ。
「社員登録は菊地和真さんでいいのよね?」
「へ?」
「えっと…まだ籍は入れてないのよね?」
「籍?」
菊地は考えこんだ。ものすごく重大なことを話されている気がする。そういえば『奥様』と呼ばれた気がする。
「菊地さん?」
「…あ、そ、そうですね」
菊地は今更だけど硬直した。そういえば、そんな話をしたっけ?いつの間に結婚することになった?
「こちらの書類に記入してください」
出されたのは入社書類だ。意外にもアナログな書類での手続きに何故かほっとする。
「明日から勤務で、9時から5時まで。昼休憩は12時からの1時間。お弁当持参でもいいけど、食堂があるからその方が楽かも」
「はい」
「で、明日は挨拶とかあるから、ここに8時40分ぐらいに来て貰える?」
「分かりました」
色々と書類が入った封筒を渡されて、部屋を後にする。どこに向かったらいいのか悩んでいると、エレベーターホールに田中が待っていた。
「こちらです」
エレベーターホールの奥に扉があって、田中がそこを解錠すると、エレベーターが待っていた。
「こちらにお乗り下さい」
何やらカードキーで操作している。
「役員専用です」
なるほどと思う。
着くと、そこはホテルのロビーのような空間だった。
田中に案内されるまま、大きな扉の中に入ると、随分な部屋があった。どう見ても社長室だ。
眼下に広がる景色は、今朝見たのよりも凄いことになっている。オフィス街特有の箱庭感が半端ない。車がミニカーよりも小さく見える。
後ろで田中が何かを言っているのが、菊地はまともに聞いていなかった。ガラスに頭をつけて、まるで子どものように外を眺め続けていると、どんどん菊地の体が下に下がっていく。
「お飲み物は…」
田中が菊地に声をかけたとき、田中は菊地の異変に気がついた。
「その体勢で?」
下を覗き込むような体勢で、菊地は寝ていた。
随分とよく寝ていたと今朝思ったのに、菊地はこんな場所で、そんな姿勢で寝ている。
田中は少し考えたあと、毛布を持ってきて菊地をそれに包んだ。直接菊地を触っていない。言い訳はできる。
そうしてソファーに菊地を寝かせると、菊地を見ないように自分の席に着く。菊地が持ってきた書類を確認して、必要な項目を埋めていく。
そんなことをしていると、当たり前のように一之瀬が戻ってきた。会議が終わったようだ。
「おかえりなさい」
田中が挨拶をすると、一之瀬は直ぐに部屋の中を見渡す。
「あちらに」
田中がそう言うと、直ぐに一之瀬がそこへと向かう。
「寝てる?」
「ええ、突然」
「突然?」
一之瀬は毛布に包まれて、規則正しい呼吸を繰り返す菊地を見つめた。
「触らないように毛布にくるませて頂きました。外を眺めていると思っていたら、その場で眠られたんです」
「は?」
一之瀬は、眠る菊地の髪を撫でながらも、疑問が消えない。
「施設を出られて、初めての外出でしょうから、疲れたと思いますよ?」
「そうか、そうだな」
そう言いつつも、一之瀬は田中を、軽く睨んでいる。
「だから、触ってませんよ。毛布で包みました」
田中が言い訳をする。そのままガラスの上で寝かせるよりいいだろう。
「で、入社の書類なんですけど」
田中が記入済みの書類を、一之瀬の前にチラつかせる。
「いつ頃籍を入れられるおつもりで?」
「次のヒートで番つもりではいるんだが」
番うことと、籍を入れることは別問題だ。
「お披露目とか、そう言うことはスケジュールの都合がありますが、籍を入れるのなんて紙切れ一枚ですからね」
田中はそう言うけれど、その紙切れ一枚を書くのが大変なのだ。
特に、菊地のような後発性の男性オメガは、妻の欄に自分の名前を記入する事に抵抗が生じるものだ。
戸籍の制度上、出産ができる方が、妻の欄に名前を記入することになる。
番うことも含めて、菊地とじっくり話し合わなくてはいけないようだ。
一之瀬は、田中を睨みつけつつも、田中がヒラヒラと見せてきた婚姻届を奪うように手にすると、自分の書類ケースにしまい込んだ。
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