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第21話 承認
「これ」
その晩、一之瀬が菊地に差し出したのはマンションのカードキーとクレジットカードだった。
「口座の凍結がまだ解除されていないから、買い物はこれを使ってくれ」
「へ?」
差し出されたのはクレジットカードで、中央に男性の横顔がデザインされている。年会費が庶民の月給以上と言う、ジェット機も買えてしまうと言う噂のやつだ。
「ちゃんと、指紋認証もしてある。和真専用だ」
そんなことを言われても、余計なことを考える。
「いつ、俺の指紋を…」
恐るべしアルファの、執着。
「それは、まぁ」
寝ているすきにとったことは内緒である。静脈認証も寝ているすきにとってある。
「あとは、これをつけてくれ」
菊地の前に出されたのは、綺麗なデザインの箱だった。
「なにこれ?」
菊地はその箱を開けてみる。
ベルベットのご大層な箱の中には、金属のような光沢のある細いベルト状のものが一本入っていた。
「これって…」
指でつまんで取り出す。たぶん、ものすごく高い。接続部の、プレートが怪しく光っていて、随分と軽くできている。
「オメガの貞操帯とも言われる、所謂首輪なんだが」
「なんか、凄くない?」
「指紋認証で鍵の開閉ができる」
ここにも指紋認証が使われている。
これだけのものを作るのに、どれくらいの時間がかかるのか分からないが、本当にいったい、いつから準備をしていたのか教えてほしい。いや、怖くて聞きたくはないけれど。
「俺の番になって欲しい」
急に真面目な顔で、声のトーンも変わって、アルファのフェロモンが溢れだしている。
「え、あ、あ……ああ、うん、わかっ、た」
話の流れから、そんなことがあるだろうな。なんてどっか遠くの方で考えてはいた。でも、次のヒートまで、まだ、余裕があるから、まったく覚悟をしていなかった。会社に提出する書類も、田中が書いてくれていた。住所が分からなかったのもあるけれど、ちゃんと独身になっていたから、そんなのまだ先だと思っていた。
「また、色々話をしよう。今日は明日からの仕事に備えて、これをつけて欲しかった、から」
菊地の手から、首輪を持って、丁寧に菊地の首に巻く。
「冷たくないんだ」
菊地の感想がそんなことで、一之瀬は内心ほっとしていた。施設の職員である木村も言っていたが、菊地のこの適応能力と言うか、順応性は特筆すべきことなのかもしれない。
「俺と和真が揃わないと開かないから」
「え?それ、今言う?」
菊地がいきなり文句をつけてきた。まぁ、鍵をかけてから解錠方法を伝えたのは一之瀬なのだが。
「貞操帯みたいなものなんだから、当たり前だ」
動揺したのを悟られないように、少しアルファのフェロモンを出してみる。
「わかったよ」
不貞腐れたような声を出してはいるが、菊地は怒ってはいないようだ。
「風呂の時に外してくれるんだろ?」
「ああ、そうだな」
「夏になったら、汗疹とかできない?」
「通気性はいいはずだ」
「はずだ?」
「俺は試してないから」
「…そーだろーな」
薄くて軽い、首の辺りを自分の手のひらで撫でて、菊地は着け心地を確認していた。
「明日、俺、8時40分には会社に行かなくちゃだから」
菊地は急にそう言うと、トイレに行ってしまった。
「え?」
いきなりの話に、一之瀬はついていけない。
「じゃ、お休み」
菊地は何故か自分の荷物がある部屋に行ってしまった。
「え?」
引き止める暇もなく、菊地はドアを閉めてしまった。せっかく用意した大きなベッドは?
ドアに、耳を押し付けて、中の様子を伺うと、既に規則正しい寝息が聞こえてきた。どうやら菊池は寝つきがいいようだ。適応能力が高いのかもしれないが、この部屋に置かれているのが、アパートで使っていたベッドだからだろう。
寝顔が見たいと思った一之瀬だが、下手なことをして起こすわけにもいかないため、素直に一人寝をすることにした。
そして、菊地の初出社の朝が来たのだが、そこでひと悶着がら起きた。
「え、電車で行くに決まってるだろ?」
「そんな、危ない事させられない」
「ずっと電車通勤してたよ。それに、これ付けてるし、抑制剤もちゃんと、もったよ」
切符をクレジットカードで買って電車に乗るつもりでいる菊地は、一緒に車で出社しようとしていた一之瀬と揉めていた。
「なんのために、再就職するんだよ」
カバンを抱えてむっとした顔をした菊地をみて、一之瀬は何も言えない。ここで無理をしたら、それこそ菊地が、逃げ出すかもしれない。
「わかったよ、その…ちかんには気をつけてくれ」
「はぁ?俺男だし」
菊地は靴を履くと、一之瀬に向き直った。
「行ってくるから」
そう言って、一之瀬のシャツを引っ張る。
頬に唇を押し付けるようにすると、一気に離れた。
バタンと言う荒っぽい音がして、菊地はいなくなっていた。
一之瀬はしばらく玄関に立っていたが、ゆっくりと頬に手を当てた。
「俺がしたかった」
そう呟くと、フラフラとリビングへと入っていった。
朝食をとったあとは、既に片付けられている。トーストにコーヒーと言うものすごくシンプルなものだったのだが、菊地が用意してくれた事が嬉しかった。
一人暮らししていたから。と言って、当たり前のようにトーストの枚数を聞かれると、いつもは1枚なのに、何故か2枚と答えしまい、さすがはアルファだなぁ。などと言われて、浮かれている自分に気がついた。
自分の飲みかけのコーヒーがはいったマグカップは、既に冷えてきている。いつも飲んでいるコーヒーなのに、菊地がいれてくれただけで美味しく感じた。
飲み終わらせるのが惜しくて、マグカップを手のひらの中で弄んでいると、いつの間にかに田中が現れた。
「社長、お時間です」
軽い咳払いが聞こえて、そう告げられば思わず横目で睨んでしまった。
「奥様…菊地様は、出社されたのですね?」
「電車で行くと言って、一人で行った」
「初出勤の日は、少し早めになりますからね」
「知っていたのか?」
「知らなかったんですか?」
逆に田中が驚いた。あんなに沢山のことを用意し続けていたくせに、その手の細かな取り決めを確認していなかったのか。なんとも情けない。運命が相手だと、こうも情けなくなるものなのかと、田中はため息をついた。
「明日からは」
「ダメです」
先回りして、田中が制した。
「番っていないし、結婚もしてません」
「一緒に住んでるだろう」
「普通は同棲を隠します」
「隠すものなのか…」
手のひらの中のマグカップを弄びながら、一之瀬は苛立ちを、何とか抑えようとした。
「あなたの番だと分かったら、回りがやり辛い」
「首輪は付けさせてもらった」
「オメガですから、問題はありませんけれど…」
そう言いつつ、田中はちらりと時計を確認する。
「そんなに気になるなら、さっさと出社すればよろしいでしょう?」
田中が一之瀬の手からマグカップを取り上げようとすると、一之瀬は慌ててマグカップの中の残りを飲み干す。
「自分で洗う」
一之瀬は立ち上がり、キッチンで軽くマグカップを洗った。食器カゴには、菊地が洗った食器が丁寧に並んでいる。そこにそっと自分が洗ったマグカップを置く。
「朝食は菊地様が?」
「ああ」
「新婚さんみたいですね」
「みたいじゃ、なくて…」
「早く番えるといいですね」
「次のヒートでする。約束もした」
「首輪を渡しながら?」
「番のプロポーズはそういうものだろう?」
「で、成功したんですね?」
「……ああ」
一之瀬の返事の仕方で、田中は何となく分かってしまった。施設での感じから、菊地はやたらと流されやすい。適応能力が高いといえばそれまでだが。
「鍵の解錠方法を伝えたら、ドン引きされた?」
「それは無い…んだが」
「でも、そう言った反応はされたんですよね?」
田中が畳み掛けるようにそう言って、軽く咳払いをした。
「そろそろ、よろしいですか?」
「ああ、わかった」
ようやく田中は、社長を出勤させることが出来た。
菊地は、電車に乗って、出社した。
クレジットカードで切符を買うのは一瞬戸惑った。すっかり忘れていたけれど、財布の中に電子マネーのカードが入っていた。それにチャージすれば良かったのだ。気がついたのはクレジットカードを財布にしまう時だった。
「帰りにやろう」
そう呟いて改札をくぐり、ホームに向かう。昨夜スマホで調べた通りに移動する。自宅から会社までの道のりは、駅構内までガイドされるから、迷いがない。
そうして、菊地が知ったのは、朝の通勤時間帯には、ちかん防止のために、女性とオメガ専用の車両があった事だった。男性オメガも乗れます。と書かれている車両には、制服姿の中高生もいた。電子マネーの定期にバースが記載されているらしい。
さて、普通に切符を買ってしまった菊地はどうすればいいのだろうか?迷っていると、駅員が声をかけてきた。菊地の首輪に気づいたのだろう。
「なにか、証明書お持ちですか?」
「あ、これ」
菊地は慌てて保険証を出した。施設で発行されたバースの記載のある保険証だ。国保の扱いだから、使えるだろう。
「はい、確認できました。こちらの車両をお使いください」
示された場所に並ぶと、隣には可愛らしいチョーカータイプのものを首に巻いた女性が立っていた。
「定期を購入する際に、証明書を合わせて出していただければ、バースの記載がされますから」
駅員がそっと教えてくれた。
車両に乗る男性は少ない。そもそも、男性オメガの数が圧倒的に少ないのだから、こうやって電車に乗って通勤通学する人数もそうそういないわけだ。
制服姿の学生がチラチラと菊地を見ていた。いつもの車両に見知らぬ男性オメガが乗り込んで気になるのだろう。目線の先は首輪だ。部屋に入ってからこっそりスマホで調べたけれど、相当な高級品であることを知って、更にドン引きしたのだ。
「あの」
制服姿の学生が声をかけてきた。
「え?あ、はい」
菊地は慌てて返事をする。
「そのネックガード、B社のですよね?」
「あ、うん」
「プレゼントですか?」
「うん」
「上位のアルファ、からですよね?」
「え?あぁ、そう、だな」
一之瀬は、あの一之瀬グループの本家の息子だったと記憶はしている。今だって、社長と呼ばれているし。
「お兄さんから、すっごいいい匂いします。やっぱり男性オメガは上位のアルファに囲われるんですね」
「え?そうなの?俺、そういうのよく分からないんだけど」
「それ、プレゼントしてくれる人なんですよね?」
「あー、うん。職業は、社長らしいよ?」
菊地がそう答えると、車内の視線が一気に集まった気がした。
「いつ、出会ったんですか?」
「え?高校で?」
「やっぱり、そうなんですね。ありがとうございます」
「え?なにが?」
「男性オメガが運命と出会うのは学生時代ってネットで話題になっていて」
「そうなんだ」
「運命的でしたか?」
「…まぁ、ある意味、ものすごく」
菊地は高校のあの事件を思い出した。ある意味ものすごく衝撃的ではあった。
「憧れます」
「そうなの?執着が物凄いよ」
言いながら菊地は、一之瀬が知らない間に指紋を採取していたこととか、制作に時間のかかるこれをいつ発注していたのかとか、考えるとそら恐ろしい事を簡潔に口にした。
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