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第23話 買い物
本格的に仕事ができるのは明日からになりそうなぐらい、フロアに戻っても質問が続いた。
可能なら、オメガ会を開きたいとまで言われてしまった。コテージで、少人数のなら参加した。と答えれば、コテージにもの凄い反応があった。
管理職からの視線が強くなったので、その話は終わりになったけど、近いうちにこのフロアのオメガを集めてオメガ会を開催したいとお願いされてしまった。
きっちりと定時の17時に、この島だけの終礼をして、帰宅となった。
駅で定期をどうしようか悩んでいたら、山岸が声をかけてきた。
「電子マネーに、チャージしておくだけでいいと思うよ。でも、バースの書き換えしてある?」
「あ、まだです」
今朝駅員に教えてもらったのだ。痴漢防止のための専用車両に乗るには、電子マネーにバースの記載が必要だ。フェロモンによる事故防止のためにも、専用車両に乗るのが、いいだろう。
窓口で電子マネーの書き換えをしている間、山岸はそばにいてくれた。
「すみません、つきあわせちゃって」
菊地が詫びると、山岸は軽く笑った。
「いや、菊地くんが無防備過ぎて心配なんだよね」そう言いつつ、山岸がどこかを見ている。
「菊地くんのアルファってさぁ、相当な上位だよね?」
「分かりますか?」
「うん、匂いもそうだけど、こっちを監視してるスーツの人がいる」
「やっぱり」
「ってことは?」
「多分、俺が高校生の頃から、なんです」
「凄いね、それ」
「知ったのはこの間ですけど」
全く気づいていなかった菊地も、随分ではある。けれど、施設に入ってすぐに、一之瀬が来たのは偶然ではない。この首輪もそうだが、菊地の身体的資料が一之瀬に筒抜けすぎる。きっとヒートを図るあのアプリ、一之瀬と共有されているに違いない。いや、この首につけているコレから、位置情報も届いていることだろう。調べて知ってしまったのは菊地のせいだ。知らない方がいいことも世の中にはあるのだ。
改札まで行くと、山岸は路線が違うからといなくなった。チャージして、手続きしたての電子マネーは、スマホケースに差し込んだ。専用車両は、最後尾にあるので、迷いなくホームへと向かう。朝より帰宅時間の方が人が多い。通勤カバンは、スリーウェイ仕様だから、電車から降りたら背中に背負った。歩くのが楽だ。
マンションの入口まで来て、夕飯をどうするのか聞いていなかったことを思い出した。
とりあえず、部屋に戻ってから考えることにして、エレベーターに乗ると、カードキーで認識されて部屋の階に止まる。一之瀬の部屋しかないから、降りたら見えるのは玄関だ。カードキーで鍵を開けて、中に入ると、誰もいない。社長である一之瀬はまだ仕事をしているのだろう。
カバンを置いて、着替えをして、手を洗ってキッチンを確認する。
「何も無い。米もない」
炊飯器はあるのに、米がなかった。今朝のパンは配達されていて軽く驚いたのだが、一階にある高級スーパーからだと知って納得はした。
メールで田中に確認してみる。
一之瀬が、会議などに参加していたら、単なる迷惑行為だ。秘書の田中なら、連絡に応じてくれるだろう。
すぐに田中から電話がかかってきた。
「すみません」
菊地が、あやまりからはいると、田中は丁寧に応対してくた。
「夕飯を作りたいんですけど、一之瀬は外食しますか?」
『いえ、社長はまっすぐ帰宅します』
「サバの味噌煮、好きかな?」
『お好きですよ』
「コメの銘柄ってこだわってる?」
『無いですね』
「じゃあ、味噌は?」
『…無いですね』
「いまから下のスーパーで買い物するから、そこなら一人で行っても?」
『大丈夫ですよ』
「ありがとう」
菊地はすぐに通話をやめた。
炊飯器を、もう一度確認すると、計量カップが入ったままだ。どう見ても使われた形跡がない。買ったままの状態なんだろう。銘柄毎に炊き分けられるとか、菊地にはそんな機能は必要が無い。
調味料も何も無いから、相当量を買うはめになりそうだ。
施設から持ってきたスニーカーを下駄箱から取り出して、財布とスマホとカードキーを握りしめてエレベーターに乗り込んだ。
一階に着くと、エントランスからスーパー側にそのまま入れるようで、カードキーをかざすと扉が開いた。入口にいた店員が、品の良い笑顔で迎えてくれた。
カートを渡されたので、それに、欲しいものをのせていく。
「玄米?」
コメを買おうとしたら、置かれていたのは玄米だった。欲しい銘柄を言うと精米してくれるそうだ。こんなのは、コーヒー豆でしか見た事がない。
「ご希望をお伺いしますよ」
そんなことを言われても、コシヒカリぐらいしか知らない。確かに、炊飯器にはたくさんの銘柄が入っていた。
「よく聞くから、これで」
菊地は高級品とよく聞く魚沼産コシヒカリを指さした。それをとりあえず5キロにした。その他調味料も買うから、荷物が重たそうだ。サバの味噌煮だから、おひたしが無難だろうか?そもそも、一之瀬の食の好みなんか知らない。自分が、食べたいものを作ろうとあれこれ手に取っていく。
「あっ」
不意に思い出した。今朝のパン。ここから届くと言っていた。パンのコーナーを見ると、確かに店内で焼いているようだ。
しかし、何と言っていいのか分からない。今朝から食べる人数が増えたから、とでも言えばいいのか?
いや、それよりも。
「あの、い、ちのせなんですが…」
名前を言うのが恥ずかしかった。このシャツだと、首の物が見えている。
「はい、一之瀬様」
店員が笑顔で応じてくれた。
「あの、朝に届くパン、なんですけど」
「はい、一日おきですから、明日はありませんけれど?」
「届くのって、食パンだけ?」
「いいえ、バターロールや、クロワッサンもお届けしますよ?明日ご入用でございますか?」
「あの、明後日届くなら大丈夫です」
今朝食べすぎたけど、明日の朝の分はある。菊地はいちごジャムをとって、レジへと向かった。
会計は、今まで菊地がしてきた中で、最高金額をしめしてくれた。けれど、支払いは一之瀬から渡されたクレジットカードだ。
サッカー台に向かうと、店員が近づいてきた。
「一之瀬様、お届けいたしますが?」
「え、でも、すぐ料理したい」
そんなことを言ったけど、どうやって持ち帰ればいいのだろう?米と調味料だけで死にそうな重さだ。
「では、ご一緒に、コンシェルジュがお運び致します」
菊地が、買った品物は、店員が手際よく梱包して、少し大きなカートに乗せられた。それを押すのはコンシェルジュと言われた男性だった。
「お運び致します」
もう、なんだかよくわからなかった。
コンシェルジュの宅配は、マンションの住人のオプションらしく、配達待ちのカートが目に付いた。なるほど、ブルジョワな方は荷物なんて運ばないということか。
菊地は買った品物を玄関に入れてもらい、非常に恐縮したのだった。玄関から荷物をキッチンに、運ぶのもなかなか大変だった。ピカピカの廊下を荷物の引きずり跡で汚くすることは出来ない。
生物を先に運び込んで冷蔵庫にしまうと、炊飯器をじっくりと眺めた。銘柄事に炊き分ける機能は、ボタンで銘柄を呼び出すようで、コシヒカリを探すのに少し手間取った。
ほうれん草を茹でて、おひたしにして、味噌に、味噌汁は嫌だから、お吸い物を作ってみる。もう一品あると見栄えがいいのだろうけれど、さすがに何がいいのか分からない。
考え込んでいると、玄関が開く音がした。
慌てて玄関に行くと、一之瀬が何か言いたそうだ。
「おかえり、ごめん。荷物置いたままだった」
夕飯に使わないものが、箱の中に入ったままだった。
「外に出しておけば回収されるから」
一之瀬が箱の中身をキッチンに運んでくれた。
梱包の箱を玄関の外に出すと、改めて菊地を見た。
「ただいま」
「あっ、うん。おかえり」
そこまで言って、菊地はこの後のセリフを口にする前に顔が赤くなった。
「どうした?」
田中から聞いているであろう一之瀬は、唇を薄く上げている。
「えと、風呂が…先?」
炊飯器のスイッチを押していない。
風呂の支度もしていない。
「その続きは?」
一之瀬の手が菊地の腰に回っていた。
「食事が、先?」
なんだこの展開は。いつの時代のセリフ回しなんだ。そうは思うけれど、それが今一番聞きたいことなのだから仕方がない。
「もっと、聞いて」
一之瀬の声が頭の上でする。匂いを嗅がれているのだと、意識した。
「風呂の使い方、知らない」
絶対に言ってやるものかと、違うことを口にする。
「分かった」
返事の前に、空気の抜けるような音がした気がする。多分、一之瀬だって緊張していたはずだ。こんな、新婚さんみたいなやり取りなんて・・・
2人でふろ場に行って、操作方法を一之瀬から聞く。洗濯機は乾燥機能がついているから、自動でおまかせでいいそうだ。スーツとかはクリーニングも一階の高級スーパーが請け負っているらしい。キッチンにあるタブレットから、買い物も頼めるそうだ。配達時間を指示すれば、帰宅するのに合わせて荷物が届く。なんとも便利なものである。
言われてみれば、確かに朝のパンの配達は、一日おきになっていた。土日は配達がない。
そんなことをしているうちに、風呂が沸いた。一之瀬が近づいてきて、菊地のネックガードを外すのを手伝う。外したネックガードをテーブルに置きながら、菊地は一之瀬を見つめた。
そして、口を開く。
「絶対、一緒には入らない」
そう言うと、走って風呂に行ってしまった。もちろん、中から施錠されていた。これを無理に開けて入れば、絶対に嫌われるのが、分かっているので、一之瀬は素直に菊地が出てくるのを待つのだった。
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