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第28話 発情

 菊地は会社に電車通勤をし続けることにした。きっと自分の知らないところで、監視役の人がいるのかもしれないけれど、それはそれでその人たちの仕事なのだと割り切ればいい。  とりあえず、できる所までやらせて欲しいのが本音だ。そもそも一之瀬の家族にあってもいないし、名家のアルファだって、二階堂ぐらいしか見たことがない。何がすごくて、何が大変なのか、まだ何も知らない。ものすごく大変なのだとしたら、その時考えればいい。  一階にある高級スーパーでの買い物も、だいぶ要領を得てきた。前の晩に、明日何を食べたいか話し合いながら発注すればいいのだ。そうすれば二人の時間が取れるし、一之瀬の好みも知れてくる。  元々一人暮らしをしていたから、菊地は料理をすることが苦ではない。ただ、掃除をするのにこの部屋が広すぎてうんざりはする。ロボット掃除機が活躍してくれて、菊地は大いに助かってはいる。ただ、そのロボット掃除機が複数いるのがブルジョワなのだと思い知らされたけれど。 「そろそろヒートが、来るんじゃないか?」  タブレットで商品の発注をしていると、一之瀬が菊地の首の辺りの匂いを嗅いだ。 「数値も高くなっている」  当たり前のようにスマホで、アプリを確認しているから、やっぱり共有されているのだと菊地は思った。 「そうなの?匂いで分かるもん?」  自分の匂いを嗅いでもよくは分からない。アプリの見方も、説明は受けたけれど、アイコンのうさぎが青からピンクに近づいてきているのでそうなのだろうと思った程度だ。 「明日は、出社しない方が無難かもしれないな」 「明日の朝の体調で考えるよ」  菊地はそう答えて、タブレットを閉じた。朝の時点でヒートが起きそうなら、荷物は受け取れなくなる。受け取り方法の変更と、追加を考えなくてはならなくなるだろう。  まだ、自分の体調管理が出来ない菊地は、一之瀬の言う通りに大人しく眠ることにした。  翌朝、菊地は普通に起きたつもりだったけれど、コーヒーをいれていると一之瀬に顔を掴まれた。 「体温が高い」  言われてみれば、一之瀬の手が冷たくて気持ちがいい。 「今はまだちゃんとしているけど、この匂いはまずいな」  一之瀬に言われても、菊地は自分の匂いが分からない。 「ヒートが始まる。会社は休みだな」 「じゃあ、注文どうしよう」 「抑制剤を飲んで、直ぐに届けてもらうように内容変更を…俺がする」  食パンを口にくわえたまま、一之瀬がタブレットを操作する。アルファで社長の一之瀬が、そんな格好をするなんて思いもしなかった。  菊地がもそもそとパンを食べているうちに、一之瀬は素早く注文の変更手続きをしていた。 「ヨーグルトとかプリンを頼んでおいた。食べやすいサンドイッチも追加した。昼に、食欲があれば食べるといい」 「うん」  菊地は何とかトーストを、コーヒーで流し込むように食べ終えると顎をテーブルの上にのせるように伏せてしまった。 「だるいか?」 「うん、体が熱い」 「口を開けろ」  一之瀬が菊地の口の中に抑制剤を放り込んだ。 「水」  ミネラルウォーターが差し出されたので、菊地はそれで流し込んだ。 「食洗機があって、助かるな」  一之瀬が食器を全て入れて、ボタンを押す。 「番休暇の制度があるんだが、まだ俺たち番じゃないからな」  一之瀬はそう言って菊地を軽く抱きしめた。 「…ん」 「会議があるんだ、休めない」 「……ん」  菊地の返事が緩慢で、一之瀬は苦笑いしながら菊地の背中を撫でる。 「薬が効けば体が楽になる。荷物を受け取ったら、ベッドで横になるといい」 「…う、ん」  まだ薬がきいてこないので、菊地はぼんやりとした顔をしていた。急にだるくなったのか、椅子から立ち上がる気配がない。 「スーパーの荷物は、玄関先に置き配になっている。インターホンがなっても出なくていいからな」  一之瀬はそう言うと、もう一度菊地の頭を撫でて会社に行ってしまった。  二回目だからといって慣れた訳ではなく、菊地は薬が効くのをひたすら待った。ぼんやりとして、体が熱い。風邪の引き始めのような感覚だ。フローリングに横になると、冷たくて気持ちが良かった。  スマホのアプリを見ると、しっかりと発情期と表記されている。うさぎのアイコンがピンクを通り越して赤くなっている。  うさぎから吹き出しが出て、『薬は飲んだ?』『コテージに行く?』『鍵はかけた?』そう言う事が繰り返し表示されていく。 「コテージかぁ」  一回目はコテージで、木村がテキパキと面倒を見てくれた。今回は一之瀬が、面倒を見てくれる。自分一人では何も出来ない。スマホを握りしめてゴロゴロしていると、インターホンが鳴った。 『お荷物お置きします』  一之瀬が、出なくていいと言ったけど、そもそも出られるほどの気力がなくなっていた。ゆっくりと起き上がって、モニターを確認すると、配達箱が置かれているのが見えた。持ってきた人は既にいなくなっている。  握りしめていたスマホを、テーブルに置いて、玄関先に向かう。そっと扉を開けて、荷物を中に入れると、直ぐに玄関を閉めた。オートロックがかかる音がする。  箱の中には、一之瀬が言っていたヨーグルトとプリンがある。それを持って冷蔵庫にしまうと、また箱の中を確認する。一口サイズで作られた可愛らしいサンドイッチが、綺麗な箱におさまっていた。それを持ってリビングへ行って、テーブルの上に置く。  お昼に食べられるのだろうか?  菊地が選んだのとは違うオレンジジュースが入っていて、冷えていたからグラスに少しついでみた。  この間のよりコテージの味にに似ていた。  配達箱を外に出すのが面倒で、菊地はそのままにしておいた。  オレンジジュースは美味しかったので、もう少し飲んだ。スマホで一之瀬にオレンジジュースが美味しいと送っておいた。  ベッドで寝ているように言われたのを思い出し、ミネラルウォーター片手に寝室へ向かう。歩きながら色々手に取って、モゾモゾとベッドに潜り込んだ。  薬が効いてきたのか、少し眠い。  前回、薬を飲んで寝るとだいたい三時間ほどたっていた気がする。菊地はそれを目安に眠ることにした。  スマホはお守り代わりに握りしめた。  仕事が忙しいのか、一之瀬からは返事が来ない。  菊地はそのまま目を閉じた。  目が覚めた時、寝る前よりは頭が冴えていた。体がだるいのは変わりなかったけど。スマホを開くと、一之瀬から返事があった。良かった。というかなり短い返事だ。  スマホを握りしめて、リビングへと向かい、オレンジジュースを、きちんと冷蔵庫にしまったのに、グラスを洗っていなかったことに気がついた。  色々悩んで、新しいグラスを出した。  サンドイッチは食べやすかったけれど、そんなに食欲がわかなくて残した。その分オレンジジュースを飲みすぎた。おかげでしばらくトイレに籠ったけれど、抑制剤をまた飲んでベッドに潜り込んだ。  体は熱いのに、布団に包まれていると落ち着く。そうやって、菊地はベッドの中でゴロゴロして、体をシーツに押し付けて何となくモゾモゾとして過ごしてみた。

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