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第30話 喧騒

 菊地が目を覚ますと、大きなベッドには一之瀬の姿がなかった。断片的に覚えているから、何となく首に手を当ててみる。 「これ?」  見えないけれど、なにかカサブタのような手触りがある。  パジャマを着ているけれど、菊地のものでは無い。大きさから言って、一之瀬のだ。  周りを見ても見当たらないので、その状態のままリビングへと向かった。 「和真」  リビングに入った途端、一之瀬から名前を呼ばれた。  今更だけど、名前呼びが気恥しい。 「……た、すく」  番になったからには、そう呼んだ方がいいのかと、菊地の、精一杯だ。  途端、一之瀬が目を見開いた。  聞き間違いかと何度か瞬きをする。 「え、そうなの?」  ようやく理解したのか、一之瀬は嬉しそうだ。 「…っなんだよ」  菊地の精一杯なので、すぐには口から出てこない。 「これ、ご飯?」  ダイニングテーブルに準備された食事をみて、菊地は少し悩んだ。 (なんか、ちょっとズレてないか?)  お祝いごとのつもりなのか、それとも一之瀬が作れる食事がこれなのか? 「和真は和食が、好きなんだろ?」 「う、うん」  和食と言うか、お祝いごとでご馳走を食べるなら寿司とかうなぎのほうがいい。けれど? 「食べやすいだろう?」 「うん」  とても二人分には見えない大きさの木桶があった。  色とりどりの具材がちりばめられて、とても華やかで豪華ではある。  漆塗りのお椀には、お吸物が入っていて・・・ 「えっ、と…多分、なんだけど」  菊地は深いため息をついてから、口にした。 「世間一般的には、ちらし寿司とハマグリのお吸物って、女の子の節句に用意するものだと思う」  まぁ、確かに、オメガって女子枠かもしれないけどね。 「なんでハマグリか知ってる?」  身を食べたあとの貝を手にして菊地が言う。 「どういう意味で?」 「女の子お祝いにハマグリのわけ」  菊地は貝をテーブルの上に並べた。 「ハマグリってさ、番いが合わないとダメなんだよ」  一之瀬の碗からだした貝に、菊地の碗から出した貝を置く。 「重ならないでしょ」  次に、一之瀬の碗から出した貝に、一之瀬の碗から出した貝を置く。 「ちゃんと閉じる」 「なるほど」 「貝合わせって、平安時代からある遊び」 「ああ、古典で出てきたな」 「そんな時代から知ってるんだよ。番いが合わないと貝が閉じないって」  菊地が交互に貝を乗せるのを、一之瀬が眺めている。 「凄いな」 「ね」  菊地はしばらく貝を交互に乗せるのを繰り返した。  ─────── 「元気だった?」  ヒート明け、山岸にそう声をかけられると、なんだか、気恥しかった。  元気ではあった。  そりゃ、ずーっと致してしまえるほど、体力もあった。オメガも凄いが、それよりもアルファの方が恐ろしい。致したあとのシーツやらを洗濯したり、眠っているオメガの、体を拭いたりなんやらの後始末まで出来てしまうのだ。なんと、甲斐甲斐しいことか。 「番になったんだ」  菊地からの微かな匂いの違いに、山岸は気づいたらしい。一之瀬がマーキングするアルファのフェロモンの質が変わったそうだ。 「だって、管理職たちの顔色が違うよ」  山岸に言われてちらりと見れば、あちらもこちらを見ていた。 「うん、俺さ、電車通勤やめたんだ」 「え?」 「危ないからって」 「あぁ、まぁ、そうだろうね」  山岸は、菊地の番を思い出しながら答えた。  ネックガードで隠れてはいるが、明らかに菊地の匂いが変わっている。番の証は性的な意味もあるので、日本の社会では隠すのが主流だ。  周りのオメガたちは、特に聞いてきたりせず、穏やかに接してくれるのがありがたい。たぶん、またオメガ会を開くことになるのだろう。  慣れてきた入力作業をしていると、何やら慌ただしい足音がした。  今朝車を運転していた警護の人だ。 「お……菊地様、直ぐに移動してください」  何やら慌てているようで、菊地の素性を隠そうとはしているものの、相当焦っているのが分かる。 「何かあったんですか?」  会社にいる限り、命の危険に遭遇することはないと思われるが、警護の人はだいぶ焦っている。 「私は社長に雇われている身分ですから」  そう言って、手袋をした手で菊地の腕を掴む。 「急いでこのフロアにある隔離室に入ってください」 「なんで?俺はヒート明けなんだけど?」  誰かアルファが発情してしまったのだろうか?だとすると、ここにいるオメガ全員が逃げなくてはならないとおもうのだが。 「説明は後で、社長から聞いてください」  そう言って、警護の人は菊地を抱き抱えるようにして小走りに移動を始めた。  菊地は何が何だか分からないまま、隔離室へと入れられた。 「中から鍵をかけて、私が合図するまで絶対に開けないでくださいね」  よく分からないが、警護の人の言うことは必ず聞くように一之瀬から言われている。菊地は頷いて鍵をかけた。  遠くの方が、騒がしくなってきた。  誰かが、大声で話をしている。と言うより、若干怒鳴りあっているようにも聞こえる。 「何しに来たんです」 「お前が家に連れてこないから、見に来たんだ」  言い合っているのは二人だが、足音はそれ以上だ。  よく聞けば、一人は一之瀬だ。 「なんだ、どこにいるんだ?」  一之瀬に似た声質ではあるが、それよりも低い。 「落ち着いて下さい」  そう言っているのはおそらく田中だ。  フロアが何やら騒然としているのは確かだ。 「社長だ!」  女子社員の黄色い声が聞こえる。  みんな仕事どころでは無いのだろう。女子社員の甲高い声がやたらと聞こえるが、誰も静かにさせることが出来ないようだ。 「どこに隠した?」 「見せませんよ」  一之瀬がそんなことを言っている。 「ケチケチするな。高校の時のあの子なんだろう?」  からかいを含んだ言い方をされて、一之瀬が頑なに拒否をしている。 「だいたい匂いで分かるんだが…」 「嗅ぐなっ」  一之瀬が怒鳴っている。  菊地は扉越しにそのやり取りを聞いているだけなのだが、仮にも社長である一之瀬に、そんなことを言う人はだいぶ限られるだろう。 「会長、大人しくしてください」  誰かがついに抑えに入った。  が、 (会長?会長ってことは…)  菊地は唾を飲み込んだ。高校の入学式で姿を見たことがある。おそらく一之瀬匡の父親だ。グループをまとめる会長職に就いているとパンフレットで見た。  写真で見る限りだいぶ若い印象だったが、声も随分と若々しい。 「社長も、勿体ぶらないで」  一之瀬まで、怒られているということは、この声の主は会長の秘書とか、そんな立場の人なのだろうか?何したって、何故こんな騒ぎを起こすのか。 「やっと番になったんですよ。昨日の今日で会わせられるわけがないでしょう」 「昨日やったのか!」  嬉しそうに随分なことを言う人だ。 「会社でそういう発言はお控えください、会長」  また、叱られている。なかなかな人がいるものだ。 「分かった、週末連れていくから」 「週末?」 「こっちだってヒート明けで仕事が溜まっているんだ」 「なんだ、要領の悪いやつめ」 「あのな…」  一之瀬がイライラしているのがよく分かる。 「そこまでです。これ以上騒ぐのなら、二人とも承知しませんよ」  先程の声の人が一喝する。  二人が大人しくなったのが、匂いでわかった。なかなか面白い体験である。菊地は声を潜めて笑った。  フロアが静かになり、扉を軽く叩いて警護の人が声をかけてきた。 「なんだったの?」  外に出るなり聞いてみると、やはり一之瀬の父親であり、グループの会長がやってきていたそうだ。目的は菊地を見るため。  随分な騒ぎを起こされて、菊地はそっと自分の席に戻った。 「おかえり」  山岸が苦笑している。  会長と社長の出現で、フロアはだいぶ浮ついたけれど、菊地のことはバレなかったらしい。  菊地は定時になると地下駐車場に降りて、車で帰宅する。随分な通勤方法になってしまったが、安全のためには仕方がないらしい。嫌なら仕事を辞めるしかないと言われて、受け入れることにした。許される限り働きたいと思うのは、ベータの名残なのかもしれない。  夕飯を食べている時、一之瀬が申し訳なさそうに言ってきた。 「うん、週末ね。大丈夫聞いていたから」  菊地がそう言うと、一之瀬はだいぶ安心した顔をしたけれど、不満そうな口調だった。 「親父はね、ずっと和真のことを知っていたから、俺よりも喜んでいるかも知れない」 「へ?」 「言ったろ?高校の頃から和真に監視をつけていたんだ」 「あ、ああ、うん」 「報告書は親父も渡されていたからな」 「へー」  自分の知らない間、相手はずっと知っていたわけだ。包み隠さずと言うより、何もかもバレている。それは違う意味で恥ずかしけれど、いっそ開き直って気が楽だ。オメガとしての教育なんて受けてないのもしれているならそれでいい。 「大丈夫、親父も和真を気に入ってるから」 「ベータだったのに?」 「そう、それも含めて」  噂に聞いていたのと違って、なんだかイージーモードに笑ってしまう。とりあえず、懸念が一つなくなって菊地は安堵した。

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