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第32話 相談事

「島野くん、島野くん」  一之瀬に抱き抱えられた体勢のまま、菊地は島野に声をかける。ベータの同級生として高校から十年弱共に過ごしてきた友人が、もう一度目の前に現れてくれた。自分がオメガ性に目覚めてしまったから、ベータ時代の友人とはもう連絡も取れないと思っていただけに、菊地にとっては嬉しい出来事だった。 「はい、なんでしょう」  けれども、島野の反応がよそよそしくて、菊地は少し寂しい。 「ねぇ、今までどこに隠れてたの?」  交代制とはいえ、何ヶ月も姿を見なかったことが不思議でならない。確かになれない生活で、周りを見る余裕がなかったことは確かだ。 「え…隠れて、た?」  菊地の何気ない質問に、島野は返答に困る。確かに隠れていたといえばそうなるけれど、仕事柄そんなに表に出る必要は無い。  そんなことを言っているうちに、エレベーターは最上階に着いてしまって、島野は当たり前のように扉を抑えながら体を外に出す。  一之瀬は菊地を抱き抱えたままエレベーターを降りて、玄関へと進んでいく。島野が素早く動いて今度は玄関を開ける。朝は見られなかったけれど、島野がこれをしてくれたおかげで、一之瀬は何も障害がないかのように動いていたと言うわけだ。 「あれ?」  玄関の扉が閉まってしまい、菊地は声を上げた。 「どうした?和真」  一之瀬が菊地の頭を撫でながら、聞いてきた。 「島野くんは?島野くんは入って来ないの?」  菊地が、不思議そうな顔をするから一之瀬は困ってしまった。 「ここは俺たちの家だから、玄関からは入って来れない」  一之瀬がそう言うけれど、菊地にはよく分からない。確かに、実家でもいつの間にかに家の中にいたようだけど。 「わかりやすく言えば、使用人専用の出入口があるんだよ」 「え?そうなの?」  菊地が素直に驚くから、一之瀬は可愛くてたまらない。 「勝手口とか、そう言う名前の扉があるだろう?そういうのが作ってあるんだよ」  御用聞きの人が開けるというあの扉か。菊地の実家にもあったけれど、ごみ捨ての時に使うぐらいの扉だった。名家のアルファ様の家ともなれば、そう言う扉もあるということか。  菊地には見つけられないけれど。  リビングのソファーにおろされて、部屋の中をキョロキョロと見渡すけれど、そんな扉は見当たらない。 「和真?」  オレンジジュースをグラスに注いで、菊地に渡しながら顔を覗き込んできた。 「ありがとう」  グラスを受け取って、直ぐに口をつける。菊地はすっかりオレンジジュースが好物になっていた。以前は何も考えずにコーヒーばかりを飲んでいたけれど、インスタントで簡単に作れるからであって、特別好きだった訳では無い。 「なにか探してた?」  菊地が辺りを見渡していたのが気になる一之瀬は、菊地が何を探しているのか分かりつつも聞いてみる。 「え、あのね。島野くんたちはどこから出てくるのかと思ってさ。ほら、秘書の田中さん?あの人もいつの間にかにいたし」  従われる事に慣れていない菊地は、いつの間にかに側に誰かが控えていることが不思議でならない。だからどこから出てくるのか気になるのだろう。そんな菊地さえ可愛くて仕方が無いのだけれど、自分以外に菊地の気持ちが向いているのが気に入らない。 「そんなに島野が気になる?」  少し拗ねたように聞いたのに、菊地はあっさり肯定する。 「だって、友だちだし。また、会えて嬉しかった」  そんなことを言われたら、独占欲が刺激される。  しかし、友だちと言われると、それはまた違う問題が生じてくる。 「和真、あのね」  一之瀬はなんと言って説明したらいいのか考えた。 「うん、なに」  菊地はオレンジジュースを美味しそうに飲んでいる。そんな表情を隣で見られるようになって、一之瀬は素直に嬉しい。今までずっと、島野からの報告に添付された写真や動画だけで我慢してきたのだ。  菊地と一之瀬が番ったから、島野はようやく仕事が楽になったばかりだ。今まで見かけなかったのは、単なる長休の為なのだけど、それをわざわざ説明する必要があるのか考える。 「島野は、代々一之瀬家に仕える家の者なんだ。だから、高校から俺につくための修行のような感じで、同じ高校に進学してたんだよ」 「え、やっぱりそうなの?」  菊地の反応に一之瀬が驚く。 「やっぱり?」 「だって、自宅が都内なのに、郊外のあの高校に来てたでしょ?私鉄使ってるって、言っていたけど、遠回りだったよね?都内から通っていたならJRだったと思うんだ」  意外と菊地はよく見ていたらしい。ただ、それを口にしなかっただけなのだろう。 「一之瀬は、電車に乗ってたの?」  今更だけど聞いてみる。三ノ輪が車に乗っているのは何回も見ていた。オメガだから安全の為なんだろうと直ぐにわかったけれど。 「ああ、車で通学していた。仕事があったからな」 「え?高校生なのに仕事?」  菊地が驚くから、一之瀬はたまらない。先程島野だって、仕事だと教えたばかりなのに。 「名家を継ぐからな、若いうちから経営に関わるのが普通だ」  名家では、跡継ぎを甘やかして育てたりはしないらしい。名家として、アルファとしての責任を教えこむ。 「なんか、凄いね」  菊地の気持ちが島野から逸れたので、一之瀬はようやく胸を撫で下ろす。  オレンジジュースを飲み干して、菊地は一之瀬をじっと見た。 「ねぇ、アルファのお姉さんたちには会えないの?…あ、そうだ!三ノ輪くん」  菊地の口からは、思ったことがそのまま出てくる。 「三ノ輪くんには?会える?おれと三ノ輪くんって、義理の兄弟?」  矢継ぎ早に言ってくるけれど、菊地はかなり無邪気だ。一之瀬としては、菊地と三ノ輪を会わせることは嫌なことではない。むしろ名家のオメガとして、積極的に会わせて仲良くして欲しい。そう、義理の兄弟だから。 「そうだな、姉たちはアルファで仕事もしているから、そう簡単には会わせられないんだが、由希斗になら会える」  一之瀬はそう言って、スマホを取りだした。 「由希斗はずっと実家にいるから、なにか用事を見つけ出さない限り外に出られないんだ」  オメガの特殊性をまだ理解していない菊地は、キョトンとした顔で聞いている。 「うちに遊びに来て貰う形でいいか?ただ、俺は同席できない」 「ん?うん…わかった」  一之瀬が、同席できない理由がよく分からないけれど、オメガ同士で会うということだとは理解した。 「平日でも、いいか?会社を休むことになるけれど、俺や姉が仕事に出ている方が都合がいいんだ」 「うん、わかった」  菊地の返事を聞いて、一之瀬がスマホをすばやく操作する。電話ではなく、メッセージアプリを使っているようだ。 「明日、すぐにでも会いたいらしい。構わないか?」  月曜日、自主的に三連休だ。ベータの頃ならカレンダーを見て喜んだものだけど、就職したばかりで有給もないのにいいのだろうか? 「休みの手続きは俺がしておくから気にしなくていい」  一之瀬が菊地の頭を撫でた。子ども扱いされているようだけど、なんだかその行為がたまらなく気持ちがいい。  明けて月曜日、菊地がトーストに合わせてオムレツを作ったら、一之瀬はご機嫌で出社した。  菊地としては、高校卒業以来久しぶりに会うから、とても楽しみだ。一応下の高級スーパーで甘いものを買っておいた。  念の為掃除機をかけて、来客用のスリッパを出しておく。ソワソワしていると、インターホンが鳴った。 「はいっ」 『こんにちは、三ノ輪だよ』  インターホン越しに聞こえるのは、三ノ輪の声で、なんだかとても懐かしい。  解錠ボタンを押して、三ノ輪の到着を待つ。程なくして、今度は玄関のインターホンが鳴った。 「はい」  今度は落ち着いて返事ができた。よく考えたら、インターホンで、喋るのは初めてだった。 「いらっしゃい」  菊地は玄関の扉を大きく開けた。目の前には三ノ輪が立っている。高校時代と変わらない、優しい笑顔だ。 「菊地くん、久しぶり」  思わず菊地も笑顔になる。三ノ輪を見ていて、ようやく菊地は気がついた。いつも何気なく見ていたけれど、エレベーターのあちらにある扉は? 「ちょっとまってて」  菊地はかけ出すと、気になる扉を叩いた。 「ねぇ、島野くんいる?」  菊地の突然の行動に、三ノ輪は少し驚いたけれど、呼びかける名前に心当たりがあるから思わず笑ってしまった。 「菊地くん、ここに島野がいるの?」 「え?違うの?」  絶対にここだと思った菊地は首を傾げる。 「いや、合ってると思うよ」  三ノ輪は笑いながら菊地を見ている。  二人のやり取りは、きっと見られている。どのくらいで耐えかねて出てくるのか、三ノ輪は楽しくて仕方がない。 「勘弁してくれ」  何故か玄関から島野が出てきた。  菊地は島野の姿を見て驚いたけれど、直ぐに笑顔になった。 「島野くん」  嬉しそうに島野に駆け寄るものだから、さすがに避ける訳にも行かなくて、島野は仕方なく菊地を受け止める。一之瀬が見たら嫉妬するに違いない。 「あー、うん」  島野は困った顔をして、三ノ輪に助けを求めてみたけれど、三ノ輪はわらっているだけだった。  護衛だから、ということで、島野はソファーに座ってくれなかった。  三ノ輪の持ってきたケーキに、飲み物を出そうと思ったけれど、最近の菊地はオレンジジュースばかり飲んでいて、コーヒーを、飲んでいなかった。 「あ、三ノ輪くんは何飲む?」  キッチンまで行ってから聞いてみた。 「聞いてるよ、菊地くんオレンジジュースにはまってるんだってね」  そんなことを誰に聞いているのか、怖くて聞けない。 「僕もオレンジジュース飲んでみたいな」  三ノ輪がそういうので、グラスにオレンジジュースを注ぐ。テーブルにケーキと一緒に並べて、一応島野にもオレンジジュースを出した。 「俺は…」  島野が困った顔をした。 「飲むぐらいいいでしょ?一之瀬見てないし」  菊地はそんなことを言うけれど、島野は仕事中なのだ。 「菊地くん、島野を懐柔するつもり?」 「何それ」  菊地としては、島野は友だちで、隔たりを持って接したくなどないのだ。 「俺、菊地くんのことずっと監視してたんだよ?それを知って嫌じゃないわけ?」  耐えかねて島野が聞いてきた。 「別に、嫌なことされたわけじゃないし。秘書の田中さんは一之瀬と仲がいいよ?俺と島野くんもそーいう感じになったらダメなのかな?」  具体例を上げてそんなことをいわれたら、断りにくいというものだ。あちらは長い付き合いだから、なんて言ったら、こちらだって長い付き合いだ。 「あ、うん、善処します」  島野が、そんな答え方をしたものだから、三ノ輪が声を殺して笑っていた。 「ところでさぁ、菊地くん?」  三ノ輪が話を切り出した。 「僕たち義理とはいえ兄弟になるじゃない?お互いの名前で呼び合わない?」 「え?あ、そうか、そうだね」 「僕の名前、分かる?」 「えっと、由希斗、くん、だよね?」 「そう、当たり。和真くん」  三ノ輪は楽しそうに笑った。 「僕が、匡様のお姉さんと結婚したことは聞いてるんだよね?」  三ノ輪がそういうので、菊地は首を縦に振った。 「後でバレるより、先に言っちゃうね」  三ノ輪はオレンジジュースをひと口飲んでから話し始めた。 「僕ね、三ノ輪の本家の跡取りなんだけど、オメガじゃない?だからアルファに入婿してもらわないとで結構お見合いしてたんだ。そうしたらさ、一之瀬家は子どもが全員アルファだから、って誰でも気に入って貰えればって感じで、全員とお見合いさせられたんだよね」  なかなか豪快なことだけど、それはいつのことだったのだろうか? 「高校に入る前だったんだけど、匡様はね、運命の人がいいって、言ってさぁ僕のこと一目見るなり断ってきたの。もうその時はものすごびっくりしたんだけど、結局一番上のお姉さんと婚約したんだ、僕」  お見合いなんて、したこともない菊地からしたら、断りかたというものがあることさえ知らない。だから、一之瀬が、どれほど失礼な事をしでかしたのか分からなかった。 「それでね、オメガは孕む性でしょ?」 「あ、ああ…うん」  まだ自覚がないので、返事をしつつも菊地は少し顔が赤くなった。 「婚約者になったから、ヒートの時に一緒に過ごして貰う事になったんだけど、ね。その、ほら…オメガとはいえ、僕は男じゃない?初めての、その、体験で、アルファとはいえ、女の人に抱かれるのって、ちょっと抵抗があってさぁ」  三ノ輪がなんだかもじもじしている。けれど、菊地の中では疑問しかない。何しろ菊地にはベータとしての知識が大半で、菊地の相手のアルファは一之瀬だから男が相手だけど、別に想像出来なかった訳では無い。けれど、アルファが女でオメガが男の場合は?どうやってオメガが、孕むのだろうか? 「それで、ね。僕の初めてのヒートの相手、匡様にお願いしちゃったんだ。ごめんね?」  菊地が、色々考え事をしているうちに、三ノ輪からサラッと重大な告白がなされた。しばらく理解するのに時間がかかったけれど、理解した途端に菊地は顔が赤くなった。 「だから、ね?そういう意味でも僕たち兄弟ってことなんだ」  三ノ輪のオープンすぎる言い方に、菊地は真っ赤になったまま口が聞けない。そんな表現、ベータ男子だけの飲み会で、小耳に挟む程度でしか聞いたことがない。 「あ、でも、最初の一回だけで、後はずっと婚約者のお姉さん、まぁ、今は僕の番でもあるんだけど…」  三ノ輪が言うので菊地は素直に頷いた。 「それで、ね」  三ノ輪が菊地の手を突然握ってきた。 「え?なに?」  脳内処理が終わっていない菊地は、三ノ輪の顔を間近で見てさらに顔が赤くなる。 「聞いてると思うけど、僕……まだ、赤ちゃん、産んでないんだ」  大学を卒業して、結婚したと聞いているから、それでまだと言うのは確かに遅いだろう。菊地が聞かされた、オメガ男子の妊娠適齢期から考えても、遅いと思う。 「えっと、なんで…って、聞いてもいい?」  そもそも、婚約者がいると高校の頃に菊地の耳にも入っていた。だから、てっきり高校を卒業したら結婚したものだと思っていた。 「あのね……その」  三ノ輪らしくない、なんだか、歯切れの悪い態度だ。 「怖いんだよっ」  ストレートに三ノ輪が言うと、菊地は反射的に頷いた。  ものすごくよく分かる。 「和真くん、この間までベータだったから、分かってくれると思って」  分かる、分かる。  だって、男なのに子宮があって、アルファが相手なら妊娠出来ますよ。って、意味が分からない。 「僕の場合さぁ、番が女性アルファじゃない?世間一般の感覚からいくと見た目は夫婦なんだけど…じゃあいざ、ってことに及ぶと立場が逆になるわけじゃない?実際妊娠するのは僕なんだもん。産婦人科に行って股広げるの僕なんだよ!」  三ノ輪の気持ちが痛いほど分かってしまうのは、菊地が未だにベータの感覚で生きているからだろうか。 「あー、あー、あー、そーだぁっ」  三ノ輪の一言で、菊地は頭を抱えた。そーれーだぁ!意図的に考えないようにしていたのか、全く考えてもいなかった問題だ。  入れたら出すに決まってる。 「和真くん、分かってくれた?」  三ノ輪が、手を握りしめたまま言ってきた。 「うん、今、唐突に理解した。それだよ」  とりあえず、菊地は童貞じゃない。その辺は男としてやり残した感がないだけよしとしよう。  あれ?三ノ輪は? 「あのさ、ぶっちゃけで聞いてもいい?」  今度は菊地が聞く番だ。 「由希斗くんは……童貞?」  男オメガには、大変酷な質問だ。ベータ男子にだってなかなか聞ける話題ではない。 「卒業したっ」  意外な返事が帰ってきて、菊地は目を丸くした。 「えぇ!」  が、大きな声を出したのは菊地では無い。  二人がバッと振り返る。その先にいたのは、 「島野……仕事中」  三ノ輪が、冷たい目線を投げつけた。思わず声を出してしまって、島野は口を抑えて目が泳いでいる。 「気持ちは分かる」  自分で聞いておきながら、菊地も随分だ。 「で、相手は?」  そうなれば、相手が知りたい。  菊地は前のめりで質問だ。オメガとしての相手が一之瀬だったわけだ。じゃあ、男としての相手は? 「………お姉さん」 「へ?」 「番になる前に、させてもらった」  なんだそれは。三ノ輪の人生、一之瀬家で完結させているじゃないか。 「凄いねぇ、どっちもできるんだぁ」  菊地が純粋に感動している。  けれど、後ろに控える島野はツッコミたい気持ちでいっぱいだ。 「でも、孕むのは僕だ」  三ノ輪は若干不貞腐れているようだ。 「でも、さぁ。適齢期…だよね?」  菊地がそう言うと、三ノ輪が眉間に皺を寄せた。分かってはいることだ。 「…うん。だから、ね」  三ノ輪が、座り直して菊地に向き直る。 「一緒に孕んで!」 「…………………」  菊地の思考が停止した。  視界の端で島野が固まっている。 「仲間が欲しいんだよぉ」  三ノ輪、魂の叫びだった。

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