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第269話

「薬が効いてきたのでしょう。身体は疲れているでしょうから、眠れそうなら眠ってください。大丈夫、ずっとこうして側にいますから」  ヒュトゥスレイは雨の狂気の名の通り、雨が降る時に身を蝕む。雨季は休める時間は数えられる程度だろう。公爵の名と財力で手に入れている薬も、雨季の前には単なる付け焼刃に過ぎないだろう。今、少しでも薬が効いて落ち着いているのならば、眠った方がいい。 「エルも一緒にいます。ですから、安心して眠ってください」  ルイの言葉を理解しているのか、エルピスはアシェルの膝の上で丸まり、腹に頭を擦りつけた。それに微笑み、アシェルは抗えぬままに小さな欠伸を零す。無意識に手が動き、服につけられていた懐中時計を握って、ゆっくりと瞼を閉ざした。  小さく息をついてすぐに身体から力の抜けたアシェルを見つめ、ルイはその額にかかった白髪を撫でながら除ける。穏やかな寝息が聞こえて、ルイもまたホッと身体から力を抜いた。  雨季はまだ折り返しにも来ていないが、アシェルの身体は限界に近い。先程の反応を見るに、もはやずっと傍にいたエリクのことも、可愛がっているエルピスのことも覚えていないのだろう。ルイや、彼が何よりも大切にしているフィアナの存在を忘れてしまうのも、もはや時間の問題で、この雨季が終わるまでもつかどうかもわからない。何より恐ろしいのは、アシェルが幻覚に苛まれることだろう。アシェルの母――ミシェル夫人もまた、幻影に惑わされ、逃げ惑ううちに命を落としてしまったのだから。  窓などの施錠を厳重にし、目を離さぬようにしていても安心はできない。  この雨季がアシェルを奪ってしまうような気がして、ルイはわずかの間も惜しんで傍にいた。そうすれば、アシェルをこの世界に引き留めることができると、幼子のように信じて。  そんなルイの胸の内など知らぬアシェルは小さく寝息を零す。疲れた身体を休めようと眠りはアシェルの覚醒を許さないが、残酷なほどに雨は降り続けていた。

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