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第286話
〝アシェル〟
そう呼ぶ声が聞こえる。
〝一緒に行きましょう?〟
そう、誰かが誘う。
茶色の髪をした、美しい人。優しく微笑んでいるその姿がどうしてか嬉しくて、どうしてか悲しい。
懐かしさが込み上げてきて思い出に浸ろうとするのに、思い出せるものは何もない。ただそこに懐かしさと胸のざわめきがあるだけで、アシェルの中には何もなかった。
真っ白で、真っ黒。それを何と思えば良いのだろうか。
虚しい? それとも、少し嬉しい?
わからないまま、アシェルはただ呼吸を繰り返した。
もう何もわからない。何も見えない。
〝アシェル〟
その声に縋りたい。逃げ出したい。
もう諦めたら良い。そうすれば、きっと楽になる。何も煩うことは無い。
大丈夫。諦めることは、やっと許される。だというのに、手放そうとすればするほど胸が気持ち悪く騒めく。奥深くから何か叫び声が聞こえる。無視しなくてはいけない、無視したくないその声。
「アシェル」
また、知らない声が名を呼ぶ。同じ名を、違う声で。
「アシェル」
優しくて、温かくて、どうしてか泣き叫びたい。無意識に手を伸ばし縋れば、少し硬い温もりが身体を包み込んだ。その時に覚えたものは、なんと言うのだろうか。
「大丈夫。私が必ず守ります。必ず側にいます。だから、泣かないで」
泣く? 自分は今、泣いているのだろうか?
それはどんな涙なのだろう。あの、目の前に立つ女の人のように、真っ赤な涙なのだろうか。
「――ぅぁッ」
喘ぐように開いた唇から、押し殺せぬ呻きが零れ落ちる。誰かが泣いていた。叫ぶような声。世界が真っ白になって、真っ赤に染まる。何か恐ろしいモノが襲い掛かってきて、呑まれてしまいそうだ。
「……ぃゃだッ」
見たくない。聞きたくない。助けて――助けてッ。
もう、立っていられないから。
「大丈夫、ここにいます。さぁ、アシェル。口を開けて」
ポン、ポンと背を優しく撫でられて、アシェルの身体は勝手に脱力し、促されるままに唇を開く。柔らかな何かが重なって、トロリと甘いものが流れ込んだ。コクリと飲み込めば、褒めるように頭を優しく撫でられる。なぜか、心が温かい。まるで――、
「次に目が覚めるまでずっと、こうして抱きしめています。あなたを傷つけるものはすべて、私が切り捨てましょう。闇があなたを呑みこむというのなら、私があなたを抱き上げて光あるところまで駆けて行きましょう。大丈夫、大丈夫です」
光あふれる場所。
緑の大地に、咲き誇る美しい花々。
優しい風が吹いて、自然が歌う。
まるでそこに陽だまりがあるようで、アシェルは無意識のうちに抱きしめてくれる手を縋るように握りしめた。
降り注ぐ雨からアシェルを守るように抱きしめ、時を惜しむように駆けて幾日経っただろうか。アシェルが何かから逃れようと暴れる度、幼子のようにボロボロと涙を流す度、これ以上ないほど早く駆けているというのに僅かも進めていないかのような焦燥感にかられる。それでも公爵になると決めてから共に戦ってくれた愛馬は誰よりも速く駆けてくれた。
気づけば降り続いていた雨はなくなり、賑やかな街が続く。慣れ親しんだバーチェラとは違う形の美しい衣装を纏った人々が行き交い、豊穣を示す緑が風に揺れている。その光景にルイはアシェルを強く抱きしめ、愛馬の首を労わるように撫でると駆けだした。
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